で胸に十字を切った。なぜと訊くと、
――あの俵《たわら》の冠せてある水溜りをうまく越しますように」といった。そしてもしそれにうっかり踏込みでもするとぷりぷり憤ってまた露地口まで戻って来て、そこで足数を考え合せ露地入りをやり直すのだった。また踏み込む。するといくどでも遣《や》り遂《と》げるまでは強情に繰り返すのだった。しまいには瞳が据《すわ》って鼻の孔《あな》を大きく開けて荒い息をしている顔が軒燈で物凄かった。しかし懐中電燈を買おうと言っても承知しなかった。もうあのとき気が変になっていたのだ。けれども若《も》し首尾よく水溜りを越したとなるとお京さんはふだんの生絹のような女になって後からついて行く加奈子の手を執って無事に跨《また》ぎ越さすのだった。そのとき綺麗な声で、
――アッタンシオンよ」と言った。それから、
――注意よ」という言葉も使った。
お京さんはフランス人の夫を随分愛していた。それ以上にフランス人の夫もお京さんを愛していた。だのになぜお京さんは夫から逃げたのだろう。逃げて気狂いになったのだろう。お京さんは加奈子に水溜りを越さしたあとも加奈子の手を離さず門口まで握って言った。
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