。ダンテとベアトリーチェがめぐり合ったというアルノー河には冬の霧が一ぱいかかっていた。両側の歩道に店を持つ橋が霧の上にかかっていた。たそがれ。売品の首飾りや耳飾りが簾《すだれ》のように下っている軒の間から爆発したような灯が透けていた。その並び店の中の一軒だった。骨董品《こっとうひん》店があった。もとよりニセ物のビザンチン石彫の破片やエトラスカの土焼皿などもあって外人相手の店には違いないがその列《なら》んだ品物のなかにこの葡萄の蔓模様の鉄の取手があったのに加奈子は心をひかれた。模様の蔓と葉が中世紀特有のしつこく武骨な絡みかたをしていて血でもにじみ出そうで色は黒かった。その時は有り合せの硝子皿に取りつけてあったが外《は》ずして何《ど》の皿の提手《とって》にすることもできた。加奈子はこれを買った。そして、これにつり合う皿を独逸《ドイツ》××会社の硬製陶器から見つけて一つの提げ皿に組立てた。日本へ帰ったら第一にお豆腐を自分で買いに行こう。おそらくあんな古典的な食物はない。お豆腐をこの容物《いれもの》へ入れてわたしの丸い手がこれを提げた姿を気狂いのお京さんに見せてやろう。そしたらお京さんはひょっとしたら悦ぶかも知れない。
 焼芋屋の隣に理髪店があるという平凡な軒並も加奈子には珍らしかった。その筋向うに瓦斯《ガス》器具一切を売る安普請《やすぶしん》の西洋館がある。
 外国に行く四年前まではこの家は地震で曲ったままの古家で薪炭《しんたん》を商《あき》なっていた。薪炭商から瓦斯の道具を売る店へ、文化進展の当然の過程だ。だが椅子へ不釣合いにこどもを抱えて腰かけているおかみさんはもとのおかみさんに違いないが人相はすっかり変っている。前にはただだぶだぶして食べたものが腸でこなれて行くのをみんな喇叭管《らっぱかん》へ吸収して卵子にしてしまう女の作業を何の不思議もなさそうに厚い脂肪で包んでいるおかみさんだった。いまは瘠《や》せてしまって心配そうな太い静脈が額に絡み合っている。亭主の不身持か、世帯の苦労か、産後からひき起した不健康か。一番大きな原因に思えそうなのはもうすっかり命数だけの子供を生んでしまったので、自然から不用を申渡されたからではあるまいか。
 そうなるといままで気がつかなかった不思議さが万物の上に映り出すとみえてあの見廻すキョトキョトした眼付き――おかみさんにはどこか役離れがして
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