た。
 アンリーは狂気のようになって探し廻った。お京さんの実家へ訴えた。どうにもしようがなかった。国籍のことからまだ届けはしてなかったので公には出来なかった。
 露地の中の隠れ住いを二ヶ月ばかりしてお京さんは身体の為めに海岸の療養院へ転地した。そこへ、お京さんが立つときと加奈子が洋行するときと殆んど一緒だったので両方忙しいなかを繰り合せて隅田川の流れに沿っている鰻《うなぎ》屋の二階で二人は訣《わか》れを惜んだ。お京さんは言った。
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――人間に魂ってものがあるのでしょうか。
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 加奈子はこれによく答え得なかった。それとみてお京さんは返事を受取るのをやめて言った。
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――人間に魂があるとしても、あたしの魂には何んだかすっかり殻のようなものが出来てしまってるようね。だからどっちへ向けても人の魂と触れた感じはしなくなってしまったのね。ああ、人間で魂と魂と触れ合うという感じはどんなものでしょう。
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 そうしてお京さんは加奈子の丸い手を執った。
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――いまあたしにはこの手だけがほんとに物を握ってるように感じられるだけよ。
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 そう言ってお京さんはさめざめと泣いた。上げ潮の芥に横転縦転する白い鴎《かもめ》がビール会社の赤煉瓦《れんが》を夕暮にした。寂しい本所深川のけむり。
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――とにかく西洋人というものをよく見きわめて来てあげましょう。
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 せめてこういうのが加奈子のお京さんに対するたった一つの慰めだった。
 加奈子は欧洲の三都に移り住むごとにお京さんには簡単な手紙を出した。お京さんからは殆んど返信はなかった。然《しか》しいざ帰るというしらせを受取ると、子供のように早く早くという帰朝の催促状をよこした。そしてところも加奈子の家から七八町ばかりの裏町に家を借りて母親と住み出したらしい。アンリーは事情を承知して其の儘お京さんの病気が癒って戻って来るのを、ひとりのままで待っているという。
 電車の通ったあとの夕闇に光ってごうごうと鳴る線路をゆるく駆けて通るときに、どうしたはずみか慄えて手提げのなかの豆腐にくぼみが出来た
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