爽《さわや》かな充足を欲した。「もっと、とっぷりと浸《つ》かるような飲《のみ》ものはない?」「しとしとと、こう手で触《ふ》れるような音曲《おんぎょく》が聴《き》き度《た》いなあ。」母は遂々《とうとう》、匙《さじ》を投げた。
「男持ちの蝙蝠傘《こうもりがさ》を出して下さい。」「草履《ぞうり》を出して下さい。」「河を渡って桃を見に行くから。」私は必ずしも、男性に餓《う》えているというわけではなかった。渡しを渡った向岸《むこうぎし》の茶店《ちゃみせ》の傍《そば》にはこの頃毎日のように街の中心から私を尋《たず》ねて来る途中、画架《がか》を立てて少時《しばらく》、河岸《かし》の写生をしている画学生がいる。この美少年は不良を衒《てら》っているが根が都会っ子のお人好《ひとよ》しだった。
私は彼を後に夫にするほどだから、かなり好いてはいた。けれども、自分のその当時の欲求に照《てら》して、彼は一部分の対象でしかないのが、彼に対して憐《あわ》れに気の毒であった。
茶店の床几《しょうぎ》で鼠色《ねず》羽二重《はぶたえ》の襦袢《じゅばん》の襟《えり》をした粗《あら》い久留米絣《くるめがすり》の美少年の姿が、ちらりと動く。今日は彼は茶店の卓で酒を呑《の》んでいるのだ。私は手を振って、尾《つ》いて来ちゃいけないと合図すると、彼は笑って素直に再び酒を呑み出した。私は堤《つつみ》を伝《つた》って川上の方へ歩いて行った。
長い堤には人がいなくて、川普請《かわぶしん》の蛇籠《じゃかご》を作る石だの竹だのが散らばっていた。私は寒いとも思わないのに岸に繋《つな》いである筏《いかだ》の傍には焚火《たきび》が煙《けむ》りを立てていた。すべてのものは濡《ぬ》れ色《いろ》をしていた。白い煙さえも液体に見えて立騰《たちのぼ》っていた。
川上の上は一面に銀灰色《ぎんかいしょく》の靄《もや》で閉じられて、その中から幅の広い水の流れがやや濁《にご》って馳《は》せ下っていた。堤の崩《くず》れに板の段を補《おぎな》って、そこから桃畑に下りられるようになっている。私は、ここで見渡せる堤と丘陵《きゅうりょう》の間の平地一面と、丘陵の裾《すそ》三分の一ほどまで植え亙《わた》してある桃林《とうりん》が今を盛りに咲き揃《そろ》っている強烈な色彩にちょっと反感を持ちながら立ち止まった。だが、見つめていると、紅《あか》い一面の雲の
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