》をかけた竈《かまど》の火で暖かく、窓の色硝子の光線をうけて鉢の金魚は鱗を七彩に閃めかしながら泳いでいる。外を覗いてみると比良も比叡も遠く雪雲を冠っている。
「この次は大津、次は京都で、作楽井に言わせると、もう東海道でも上りの憧憬の力が弱まっている宿々だ」
主人は餅を食べながら笑って言った。私は
「作楽井さんは、この頃でも何処かを歩いてらっしゃるでしょうか、こういう寒空にも」
と言って、漂浪者の身の上を想ってみた。
それから二十年余り経つ。私は主人と一緒に名古屋へ行った。主人はそこに出来た博物館の頼まれ仕事で、私はまた、そこの学校へ赴任している主人の弟子の若い教師の新家庭を見舞うために。
その後の私たちの経過を述べると極めて平凡なものであった。主人は大学を出ると美術工芸学校やその他二三の勤め先が出来た上、類の少ない学問筋なので何やかや世間から相談をかけられることも多く、忙しいまま、東海道行きは、間もなく中絶してしまった。ただときどき小夜の中山を越して日坂の蕨餅《わらびもち》を食ってみたいとか、御油、赤阪の間の松並木の街道を歩いてみたいとか、譫言《うわごと》のように言っていたが、その度もだんだん少なくなって、最近では東海道にいくらか縁のあるのは何か手の込んだ調べものがあると、蒲郡《がまごおり》の旅館へ一週間か十日行って、その間、必要品を整えるため急いで豊橋へ出てみるぐらいなものである。
私はまた、子供たちも出来てしまってからは、それどころの話でなく、標本の写生も、別に女子美術出の人を雇って貰って、私はすっかり主婦の役に髪を振り乱してしまった。ただ私が今も残念に思っていることは、絵は写すことばかりして、自分の思ったことが描けなかったことである。子供の中の一人で音楽好きの男の子があるのを幸いに、これを作曲家に仕立てて、優劣は別としても兎に角、自分の胸から出るものを思うまま表現できる人間を一人作り度《た》いと骨折っているのである。
さてそんなことで、主人も私も東海道のことはすっかり忘れ果て、二人ともめいめいの用向きに没頭して、名古屋での仕事もほぼ片付いた晩に私たちはホテルの部屋で番茶を取り寄せながら雑談していた。するとふと主人は、こんなことを言い出した。
「どうだ、二人で旅へ出ることも滅多にない。一日帰りを延して久し振りにどっか近くの東海道でも歩いてみようじゃないか」
私は、はじめ何をこの忙しい中に主人が言うのかと問題にしないつもりでいたが、考えてみると、もうこの先、いつの日に、いつまた来られる旅かと思うと、主人の言葉に動かされて来た。
「そうですね。じゃ、まあ、ほんとに久し振りに行ってみましょうか」
と答えた。そう言いかけていると私は初恋の話をするように身の内の熱くなるのを感じて来た。初恋もない身で、初恋の場所でもないところの想い出に向って、それは妙であった。私たちは翌朝汽車で桑名へ向うことにした。
朝、ホテルを出発しようとすると、主人に訪問客があった。小松という名刺を見て主人は心当りがないらしく、ボーイにもう一度身元を聞かせた。するとボーイは
「何でもむかし東海道でよくお目にかかった作楽井の息子と言えばお判りでしょうと仰《お》っしゃいますが」
主人は部屋へ通すように命じて私に言った。
「おい、むかしあの宇津で君も会ったろう。あの作楽井の息子だそうだ。苗字は違っているがね」
入って来たのは洋服の服装をきちんとした壮年の紳士であった。私は殆ど忘れて思い出せなかったが、あの作楽井氏の人懐《ひとなつ》っこい眼元がこの紳士にもあるような気がした。紳士は丁寧に礼をして、自分がこの土地の鉄道関係の会社に勤めて技師をしているということから、昨晩、倶楽部へ行ってふと、亡父が死前に始終その名を口にしていたその人が先頃からこの地へ来てNホテルに泊っていることを聴いたので、早速訪ねて来た顛末《てんまつ》を簡潔に述べた。小松というのは母方の実家の姓だと言った。彼は次男なので、その方に子が無いまま実家の後を嗣《つ》いだのであった。
「すると作楽井さんは、もうお歿《な》くなりになりましたか。それはそれは。だが、年齢から言ってもだいぶにおなりだったでしょうからな」
「はあ、生きておれば七十を越えますが、一昨年歿くなりました。七八年前まで元気でおりまして、相変らず東海道を往来しておりましたが、神経痛が出ましたので流石《さすが》の父も、我を折って私の家へ落着きました」
小松技師の家は熱田に近い処に在った。そこからは腰の痛みの軽い日は、杖《つえ》に縋《すが》りながらでも、笠寺観音から、あの附近に断続して残っている低い家並に松株が挟まっている旧街道の面影を尋ねて歩いた。これが作楽井をして小田原から横浜市に移住した長男の家にかかるよりも熱田住み
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