に譲ったのは道理である。
私が主人に連れられて東海道を始めてみたのは結婚の相談が纏《まと》まって間もない頃である。
今まで友だち附合いの青年を、急に夫として眺めることは少し窮屈で擽《こそ》ばゆい気もしたが、私には前から幾分そういう予感が無いわけでもなかった。狭い職分や交際範囲の中に同じような空気を呼吸して来た若い男女が、どのみち一組になりそうなことは池の中の魚のように本能的に感じられるものである。私は照れるようなこともなく言葉もそう改めず、この旅でも、ただ身のまわりの世話ぐらいは少し遠慮を除けてしてあげるぐらいなものであった。
私たちは静岡駅で夜行汽車を降りた。すぐ駅の俥《くるま》を雇って町中を曳《ひ》かれて行くと、ほのぼの明けの靄《もや》の中から大きな山葵《わさび》漬の看板や鯛《たい》のでんぶの看板がのそっと額の上に現われて来る。旅慣れない私はこころの弾《はず》む思いがあった。
まだ、戸の閉っている二軒のあべ川|餅屋《もちや》の前を通ると直ぐ川瀬の音に狭霧《さぎり》を立てて安倍川が流れている。轍《わだち》に踏まれて躍る橋板の上を曳かれて行くと、夜行で寝不足の瞼《まぶた》が涼しく拭われる気持がする。
町ともつかず村ともつかない鄙《ひな》びた家並がある。ここは重衡《しげひら》の東下りのとき、鎌倉で重衡に愛された遊女|千手《せんじゅ》の前の生れた手越《たごし》の里だという。重衡、斬られて後、千手は尼となって善光寺に入り、歿したときは二十四歳。こういう由緒を簡単に、主人は前の俥から話し送って呉れる。そういえば山門を向き合って双方、名|灸所《きゅうしょ》と札をかけている寺など何となく古雅なものに見られるような気がして来た私は、気を利《き》かして距離を縮めてゆるゆる走って呉れる俥の上から訊《き》く。
「むかしの遊女はよく貞操的な恋愛をしたんですわね」
「みんなが、みんなそうでもあるまいが、――その時分に貴賓《きひん》の前に出るような遊女になると相当生活の独立性が保てたし、一つは年齢の若い遊女にそういうロマンスが多いですね」
「じゃ、千手もまだ重衡の薄倖《はっこう》な運命に同情できるみずみずしい情緒のある年頃だったというわけね」
「それにね、当時の鎌倉というものは新興都市には違いないが、何といっても田舎で文化に就《つい》ては何かと京都をあこがれている。三代の実朝《さね
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