の先に立って、私や麻川氏を見上げて居る。私はもう、だまってメロンを喰《た》べて居た。
某日。――裏木戸の外へ西瓜《すいか》の皮を捨てに行くと、木戸の内側の砂利道に、無帽の麻川氏がうずくまり、向うむきで地べたをじっと見つめて居る。「何してらっしゃるのですか。」と足音をひそめて私が近寄ると、氏は極々《ごくごく》あたりまえの顔をして「炎天の地下層にですな、小人がうじゃうじゃ湧《わ》こうとしてるんじゃ無いですかな。」「え?」私はたらたら汗を流して居る氏を、不思議に見詰めた。「あはは……誰でもこんな錯覚が時々ありそうですな。」「…………。」立ち上った氏の足下には大粒の黒蟻が沢山殺されて居た。汗で長髪を額にねばり付かせ、けらけら笑って立って居る氏に私は白昼の鬼気を感じた。私は気味悪くなった。「西瓜がまだ半分ありますから、あとで召上りにいらっしゃい。」私はそう云って見たが、氏は返事もせずに井戸端をめぐって、廊下へ昇って行って仕舞った。夕方私の処へ来たP社の記者が私の部屋の一族と、麻川氏を交ぜて写真を撮った。撮られて仕舞てから氏は、近頃の自分がいかに写真面に陰惨に撮れる例が多いかということを非常に気にし出した。で、もし麻川氏が陰惨にとれて居たら雑誌なんかに出すのはやめて欲しいと私もP社にたのんだ。P社の記者がそれを納得して東京へ帰ってから従妹《いとこ》に昼の西瓜の半分を切らして私の部屋の縁で麻川氏をもてなす。「いやあ、よく御馳走《ごちそう》になりますな、お陰で露命をつないでるようなもんですな。」わははと従妹がむき出しに笑い出した。氏「おかしいですか。」私「あなたのイットが面白いといつも云ってますの、このひとは。」けれど私はさっきまであんなに写真の事なんかで神経質だった氏が、打って替っておどけなんかを云うので従妹とは違った変なおかしさをおなかのなかで感じて居た。そこへ遠くの薄暮のなかから口笛が聞えて来た。T氏の弟がH屋の門を入って来たのだ。すると麻川氏は「や、種蒔くが来た」と突然顔面を硬直させて立ち上った。
某日。――夜ふけて母家へ時計を見に行くと、麻川氏が一人、応接間の籐椅子《とういす》に倚《よ》って新聞を読んで居た。私は、先刻東京から来たばかりの叔母さんと一緒なので、麻川氏に一礼して直《す》ぐ部屋へ引返そうとすると麻川氏は無理に引とめて一つの椅子に私を坐らせた。叔母さんは小柄なので、ずっと離れて窓際のちっちゃな椅子へ掛けて窓の外を見て居る。麻川氏「種蒔くはこの頃来ませんな。」私「ええ、東北の方へ行っちまったんだそうです。」麻川氏「ははあ、だが、今日も昨日も随分あなたん所でお客が多かったんですな。」私「東京から距離が近いのに土地が珍らしいから用事がなくっても遊びに来るんでしょう、東京生活よりお客が多いくらいです。」麻川氏「お客の種類は大別してどんな人達ですか。」私「………………。」麻川氏「いやあ、僕にひと様のお客を調べる権利はありませんが……。」私「重《おも》だった客は先達《せんだっ》てのX図案家や、詩人のX氏や、哲学科のX氏あたりでしょう。」麻川氏「図案家X氏も行きづまりの恰好ですな。」私「そう、今までのメカニズムが近頃擡頭して来た新古典主義に押され勝ちのようですね。そういう欧洲の情勢が日本にも影響して来ましたのね。」麻川氏「詩人X氏は相変らず若くてカラリストだ。だが、時々馬鹿に饒舌《じょうぜつ》すぎますな……そして哲学科は……。」私「あれは私の論敵!」叔母さんが窓の方から、くるりとこっちを向いた。「煙草《たばこ》いかがです。」と麻川氏は叔母さんにケースを出したが叔母さんは喫《の》まないのでお辞儀だけした。私「あなたの処も随分お客が多いんですね。」麻川氏「□奴も△奴もうるさい奴等ですよ。」私「でも随分あなた崇拝家ですわ。」「ははん。」と麻川氏はやや得意そうに電灯の笠を見た。真上から電灯の直射をうけて痩《や》せた麻川氏の両頬《りょうほお》へ一筋ずつ河のように太い隈《くま》が現われた。麻川氏「ああいう狂拝家に逢《あ》ってはこっちから見てあぶなっかしくて困りますよ。□はさしものN市の大家産を傾け尽そうとして居るのですよ。好い奴ですが、どうも幼稚な野心家でね。文学だ、美術だ、でさらんぱらんになりそうですよ。」私「△さんの店の最中《もなか》おいしいんですね。」麻川氏「あの△氏も最中ばかりつくってりゃ好いのに、われわれどもを崇拝始めたら商売道は危うしですな。」私「×さん、×××さん達、先刻まで居られましたね。」麻川氏「×は小説家志望ですがダンスがうまいですよ。鎌倉ホテルのダンス場で×にダンス習ったらどうですか。年がいかないからまだ彼は無邪気ですよ。」叔母さんが口を出した。「いやですよ。この人は波乗りがやっとって処ですからね、そんな身軽なこと出来やしませんよ。」おばさんはだから発声運動をさせようと、三味線《しゃみせん》を持って来て、明日から私に鶴亀の復習をさせようとして居ることを話して二人は応接室から出ようとすると麻川氏は改めて私を呼び留めた。そして大真面目《おおまじめ》に「あなたんとこへまだ随分沢山の人が東京から来るんでしょうな。およそ何人位まだ来る予定ですか。」私「それは判りません。」麻川氏「それらの人達がですな、一々僕を頭に置いて帰るんじゃあ、やり切れない……。」
暗い廊下を通り乍《なが》ら叔母さんは云った。「変な人ね、あの麻川さんて人は。」私「……。」叔母さん「何だって人の処へ来るお客の数を調べ上げたり気にしたりするんだろうね。」
部屋へ帰って来て床を敷き乍らも叔母さんは独言《ひとりごと》のように云っている。「どうも変だよ、あの人はまるで、うしろ暗い事でも持っているようだ。」などと。叔母さんは五十近くでなりふり[#「なりふり」に傍点]など古風で常識的だが、なまなかの若者より敏感なのだ。やがて叔母さんは襖《ふすま》をしめて従妹《いとこ》と向うの部屋で寝て仕舞った。私は昼寝をかなりしたし、叔母さんの言葉や、麻川氏の今さっきの言葉や態度も気になって寝られ無い。仕方なしに起きて机の上に両手を組み頭をのせ叔母さんの云った麻川さんのうしろ暗い事について考え込んだ。うしろ暗い事なんか誰でも持って居るのだ、それをあんなにも人に見せまい感づかれまいとする麻川氏の焦燥は、見て居てもこっちが辛《つら》い。お客はお互いの部屋のお互いっこなのだ。も一つの部屋のブルジョア息子達の部屋のお客こそ大したものだ。朝から晩まで誰かしら外部のものが詰めかけ、ハモニカ、合唱、角力《すもう》、哄笑《こうしょう》。それらは麻川氏の神経に触らなくて「種|蒔《ま》く氏」の外は殆《ほとん》ど皆おとなしく話し込んだり遊んだりして帰って行く私の客達に麻川氏は一種の恐怖観念のようなものを抱くのらしい。麻川氏の方にしても若い無邪気な×氏や温厚な洗錬された作家×××氏や画家K氏を除く外はあんまり愉快な客ばかりでは無い。或る一人の男などはたまたま廊下で私に逢《あ》い私を呼び留めて「僕あ身分をかくして居るんですが。」などと思わせぶりな前提で麻川氏を誇張的に讃美《さんび》し自分も麻川氏の客であるからには、天下の存在であるかのような口吻《こうふん》を洩《も》らして私に堪《たま》らなく気障《きざ》な思いをさせ、また相当|曰《いわ》くつきらしい女客達が麻川氏を囲んで大柄に坐《すわ》りこみ、麻川氏の座敷から廊下や庭を往き来する人達を睥睨《へいげい》するのも愉快では無い。私などそんな女達や陰口の上手な麻川氏等に何を云われて居るのかと時々たまらなく神経に触る。なるたけ麻川氏の部屋に客の居るとき、私は自分の存在を隠して遠慮して居る。客の居ないときの麻川氏と談す時は、麻川氏の客のことなど殆ど忘れて仕舞って居るのに、麻川氏は、氏と何の関係も無い私の客達に、ああも神経質になるのは、叔母さんのいわゆる「何かうしろ暗さ。」を私に感じて居、それを私が客達に或いは幾分でも談すと思っているのかしら。それにしても麻川氏が私に「うしろ暗さ。」を懸念するような事は差し当り何だろう。強て想《おも》い出そうとすれば一週間ばかり前の「美人問答。」の折の氏の執拗《しつよう》さだ。氏が自分から私に押したあの時の執拗さに反発され、それが氏に創痍《きず》を残していることが想像される。
一週間ばかり前のひるすぎ、麻川氏と私の話は「女性美。」というような方へ触れて行った。麻川氏「女の本当の美人なんてものは、男と同じように仲々|尠《すくな》いですね。しかし、男が、ふと或る女を想いつめ、その女にいろいろな空想や希望を積み重ねて行くとその女が絶世の美人に見えるようになって来ますね。そして、その陶酔を醒《さま》したくないと思いますね。その方が男にとって幸福ですからね。女から紅や、白粉《おしろい》を拭《ぬぐ》い取って、素顔を見るなんか私にはとても出来ない事です。だが、それだって好いじゃないですか。それだって。」氏の言葉の調子は、いくらかずつ私をきめつけてかかる。私は「そうですとも。」と相槌《あいづち》を打った。すると麻川氏は「ほんとうにそう、思うんですか。」とますます私を極《き》め付ける。私「ええ。」麻川氏「本当に……じゃあ何故あなたは……何故……。」「何ですか」と私。
麻川氏は、それきり口をつぐんで仕舞った。眼が薄ぐもりの河の底のように光り、口辺に皮肉な微笑が浮んだ。やがて氏は眼を斜視にして藤棚の一方を見詰めて居たが突然立ち上り手を延ばして藤の葉を二三枚むしり取り、元の処へ坐った。が、いらいらとしていくらか気息を呑《の》み、「僕が、そういう意味でですね、僕がある女を美人と認めるとしても異議無しの筈《はず》ですがねあなたは。」私「ある女って誰ですか。」私も咄嗟《とっさ》の場合、詰《きっ》となった。麻川氏は必死な狡《ずる》さで「ふふふふ。」と笑った。ふと、私はX夫人の事を思いついた。そして、巧《たくみ》な化粧で変貌《へんぼう》したX夫人を先年某料亭で見て変貌以前を知って居る私が眼前のX夫人の美に見惚《みほ》れ乍ら麻川氏と一緒に単純に讃嘆《さんたん》出来なかった事、その気持ちでその時の麻川氏を批判した随筆を或る雑誌に絶対に氏やX夫人の名前を明記しないで書いたのが、矢張り麻川氏は読んで感付き気持ちに含んで居たのだと判った。「私は、自分の美人観はかなりはっきり持って居ますけれどひと様の好悪はどうでも好いんです。」私は斯《こ》う云って何故か悲しくなってうつ向いて仕舞った。何というしつこい氏の神経だ。正午前から、あんなに女中に言伝《ことづ》て、お駒婆さんに菓子を持たせ、部屋へ話しに来るように私を呼び立てたのは、この事を云う為だったのか、もうこのくらいつき合えば、この事を云い出しても好いと、見はからっての氏の招待だったか……その二三日前もこんな事があった。私が海岸から扇《おうぎ》ヶ谷《やつ》へ向う道で非常な馬上美人に遇《あ》ったと帰って来て氏に話した。すると氏は妙な冷笑を浮べて「非常な美人? ははあ、あなたに美人の定見がありますか。」私「でも、私は美人と思ったのですもの、定見とか何とか問題無しに。」麻川氏「その女が馬上に居たんで美人に見えたんでしょう。」私にもぐっと来る気持ちが起きたが表面は素直に「馬上だからなおスタイルが颯爽《さっそう》としてたんでもありましょうがね、私の云うのは顔なんですの、素晴しく均整のとれてる顔が、馬上でほっと赧《あか》らんでいましたの。」「ははあ。」と麻川氏はどうも遺憾で堪《たま》らない様子だ。「由来均整のとれてる顔には莫迦《ばか》が多いですな。」
私はむっとして傍を向いた。何故私が扇ヶ谷の道路で観《み》た馬上の女性を麻川氏の前で美人と云ったのは悪いのか。そのくせ、麻川氏自身は殆ど絶えず色々な女性の美醜を評価し続けて居ると云っても好いくらいだのに何故私がたまたま扇ヶ谷の馬上美人を氏の前で褒めては悪いのか。事実私としては白日の下で近来あれ程高貴で美麗な顔立ちを見たことが無いのだ。
麻川氏は私のむっとした顔色を観てとった。するとたち
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