そりゃ、そうです。だから僕は、こんな事考え乍ら出来るだけ妻に対しては好い夫、子にも好い父であろうとして居ます。でもそういう責任や羈絆《きはん》を感ずれば感ずる程また一方に家庭への反逆心も起ろうというもんです。はははは……人間なんて、殊に男なんて勝手なもんですな。」
氏の笑い声が、はたはたと、八月の海岸地の繁茂する野菜畑に響き渡った。氏が妙に空虚に張った声の内容には、何か韜晦《とうかい》する感情が、潜んでいるようにも感ぜられた。ことによったら氏は家庭へ帰る代りに誰かに昨夜ひそかに逢《あ》って来たのでは無いかしら……誰かに……或いは彼女……X夫人に……。
某日。――昨夜、おばさん三味線《しゃみせん》を持って東京へ帰り(私に唄《うた》をうたわせ発声運動の目的で来たが私が避暑地の人達に聞かれるのを嫌がるので、)主人今朝大阪より此処へ戻る。夜汽車の疲れを見せてH屋の表門を主人がはいるや、麻川氏はいそいそ出迎えて呉《く》れる。私達の部屋より表門に近い氏の部屋へ氏は主人をまず招じて座布団《ざぶとん》をすすめ、洗面器へ冷水を汲み、新らしいタオルを添えるなど、この気の利かない私よりもずっと行き届いた
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