るとふとその気になるんだわ。」私もほぼ判っては居るのだけれど今頃になって涙が出て仕方がない。主人「とにかくあの人の神経にゃ君が噛《か》み切れないんだよ。そうかって君って人にはどうも無関心になり切れないらしいな。ああいった性分の人には……それで焦《じ》れてついいろんなことを云ったり仕たりしちまうんだな。」
 この時、途中、馬車から自分の宿へ降りて行った赫子がまた麻川氏の部屋へ来たらしい高声が聞えた。従妹が一寸《ちょっと》顔色を変えたのを主人は眼で制した。そして煙草《たばこ》に火をつけてから云った。「どうだい。一たん東京へ引き上げちゃあ。そして九月になってみんな帰っちまってからまた来るとしちゃ。」

 葉子はこの日記の終った大正十二年八月下旬以来、昭和二年春まで、足かけ五年も麻川荘之介氏に逢《あ》わなかった。昭和二年の早春、葉子は、一寸した病後の気持で、熱海の梅林が見度《みた》くなり、良人《おっと》と、新橋駅から汽車に乗った。すると真向いのシートからつと立ち上って「やあ!」と懐しげに声を掛けたのは麻川荘之介氏であった。何という変り方! 葉子の記憶にあるかぎりの鎌倉時代の麻川氏は、何処か齲《むしば》んだ黝《うずくろ》さはあってもまだまだ秀麗だった麻川氏が、今は額が細長く丸く禿《は》げ上り、老婆のように皺《しわ》んだ頬《ほお》を硬《こわ》ばらせた、奇貌《きぼう》を浮かして、それでも服装だけは昔のままの身だしなみで、竹骨の張った凧紙《たこがみ》のようにしゃんと上衣を肩に張りつけた様子は、車内の人々の注目をさえひいて居る。葉子は、麻川氏の病弱を絶えず噂《うわさ》には聞いて居たが、斯《こ》うまで氏をさいなみ果した病魔の所業に今更ふかく驚ろかされた。病気はやはり支那旅行以来のものが執拗《しつよう》に氏から離れないものらしい。だが、つくづく見れば、今の異形の氏の奥から、歴然と昔の麻川氏の俤《おもかげ》は見えて来る。葉子は、その俤を鎌倉で別れて以来、日がたつにつれどれ程懐しんで居たか知れない。葉子の鎌倉日記に書いた氏との葛藤《かっとう》、氏の病的や異常が却《かえ》って葉子に氏をなつかしく思わせるのは何と皮肉であろう。だが、人が或る勝景を旅する、その当時は難路のけわしさに旅愁ばかりが身にこたえるが、日を経ればその旅愁は却ってその勝景への追憶を深からしめる陰影となる。これが或る一時期に麻川荘之介氏という優れた文学者に葉子が真実接触した追憶の例証とも云えよう。
「私ずっと前から、お逢いし度《た》かったのです。」
 五年の歳月が、葉子を率直にはっきりしたものの云える女にして居た。
「僕も。」
 氏の声はまた何という心の傷手から滲《にじ》み出した切実な声になったことだろう。
「鎌倉時代に、私はもっと素直な気持で、あなたにおつき合いすれば好かったと思ってました。」
「僕も。」
「ゆっくりお打ち合せして、近いうちにお目にかかりましょうね。」
「是非そうして下さい。旅からお帰りなったら、お宅へいつ頃伺って好いか、お知らせ下さい。是非。」
 それから葉子の良人坂本とも氏はさも懐しげに話して居た。話のうちに氏が時々立てる昔のままの豪快笑いが変り果てた現在の氏の異形から出て来るのが一種|妖怪的《ようかいてき》な傷ましさを葉子に感じさせた。
 汽車が氏の転地先○○駅迄進んだ時、氏は誰かと一緒にシートから立ち上った。誰か直《す》ぐ忘れて仕舞った程葉子は氏にばかり心を奪われて居た。氏は立ち際に「あなたが二度目に××誌に書かれた僕の批判はまったく当って居ます有難かった。」と云った。それは鎌倉以後三四年たった時分葉子が××誌から書かされたもので「麻川氏はその本性、稀《まれ》に見る稚純の士であり乍《なが》ら、作風のみは大人君子の風格を学び備えて居る為めにその二者の間隙《かんげき》や撞着矛盾《どうちゃくむじゅん》が接触する者に誤解を与える。」こんな意味のものだった。葉子がより多く氏を理解して来たと自信を持ち出した頃のものだった。
 汽車から降りてはっきりした早春の外光の中に立った氏の姿を葉子は更に傷ましく見た。思わず眼をそむけた。頭半分も後退した髪の毛の生え際から、ふらふらと延び上った弱々しい長髪が、氏の下駄|穿《ば》きの足踏みのリズムに従い一たん空に浮いて、またへたへたと禿げ上った額の半分ばかりを撫《な》で廻《ま》わす。
「あ、オバ○!」
 不意の声をたてたのは反対側の車窓から氏を見た子供であった。葉子は暗然として息を呑《の》んだ。
「すっかり、やられたんだな。」
 葉子の良人も独言のように云ったきり黙って居た。

 その日の夕刻、熱海梅林の鶴《つる》の金網前に葉子は停って居た。前年、この渓流に添って豊に張られた金網のなかに雌雄並んで豪華な姿を見せて居たのが、今は素立ちのたった一
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