が、この蔦の芽にどうやら和《なご》やかな一面を引き出されたことだけでも私には愉快だつた。また五十も過ぎて身寄りとは悉《ことごと》く仲違《なかたが》ひをしてしまひ、子供一人ない薄倖《はっこう》な身の上を彼女自身潜在意識的に感じて来て、女の末年の愛を何ものかに向つて寄せずにはゐられなくなつた性情の自然の経過が、いくらかこんなことでゝもこゝに現はれたのではないかと、憐《あわ》れにも感じ、つく/″\老婢の身体を眺めやつた。
 老婢の身体つきは、だいぶ老齢の女になつて、横顔の顎《あご》の辺に二三本、褐色《ちゃいろ》の竪筋《たてすじ》が目立つて来た。
「蔦の芽でも可愛がつておやりよ。おまへの気持ちの和みにもなるよ」
 老婢は「へえ」と空《から》返事をしてゐた。もうこの蔦に就いて他のことを考へてゐるらしかつた。


 その日から四五日経た午後、門の外で老婢が、がみ/\叫んでゐる声がした。その声は私の机のある窓近くでもあるので、書きものゝ気を散らせるので、止《や》めて貰《もら》はうと私は靴を爪先《つまさき》につきかけて、玄関先へ出てみた。門の裏側の若蔦の群は扉を横匍《よこば》ひに匍ひ進み、崎《みさき》と崎にせかれて、その間に干潮を急ぐ海流の形のやうでもあり、大きくうねりを見せて動いてゐる潮のやうでもある。空間にあへなき支点を求めて覚束《おぼつか》なくも微風に揺られてゐる掻《か》きつき剰《あま》つた新蔓は、潮の飛沫《しぶき》のやうだ。机から急に立上つた身体の動揺から私は軽微の眩暈《めまい》がしたのと、久し振りにあたる明るい陽の光の刺戟《しげき》に、苦しいより却《かえっ》て揺蕩《ようとう》とした恍惚《こうこつ》に陥つたらしい。そのまゝ佇《たたず》んで、しめやかな松の初花の樹脂|臭《くさ》い匂ひを吸ひ入れながら、門外のいさかひを聞くとも聞かぬともなく聞く。
「えゝ/\、ほんとに、あたしぢやないのだわ。よその子よ。そしてそのよその子、あたし知つてるよ」
 早熟《ませ》た口調で言つてゐるのはこの先の町の葉茶屋の少女ひろ子である。遊び友達らしい子供の四五人の声で、くす/\笑ふのが少し遠く聞える。
「嘘だろ! 両手を出してお見せ」と言つたのは老いたまき[#「まき」に傍点]の声である。もうだいぶ返答返しされて多少自信を失つたまき[#「まき」に傍点]はしどろもどろの調子である。
「はい」少女はわざと、いふことを素直に聴く良い子らしい声音《こわね》を装つて返事しながら立派に大きく両手を突出した様子が蔦の門を越した向うに感じられた。忽《たちま》ち当惑したまき[#「まき」に傍点]の表情が私に想像される。老婢《ろうひ》は「ふうむ」とうなつた。
 また、くす/\笑ふ子供たちの声が聞える。
 私も何だか微笑が出た。ちよつと間を置いて、まき[#「まき」に傍点]は勢《いきおい》づき
「ぢや、この蔦の芽をちよぎつたのは誰だ。え、そいつてごらん。え、誰だよ、そら言へまい」
「あら、言へてよ。けど言はないわ。言へばをばさんに叱《しか》られるの判つてゐるでせう。叱られること判つてゐながら言ふなんて、いくら子供だつて不人情だわ」
「不人情、は は は は は」と女の子供たちは、ひろ子の使つた大人らしい言葉が面白かつたか、男のやうな声をたてゝ一せいに笑つた。
 まき[#「まき」に傍点]はいきり立つて「この子たち口減らずといつたら――」まき[#「まき」に傍点]の憤慨してゐる様子が私にも想像されたが、すべてのものから孤独へはふり捨てられたこの老女は、やはり不人情の一言には可なり刺激を受けたらしい。「早く向うへ行つて。おまへなど女弁士にでもおなり」と叱り散らした。
 もう、そのとき、ひろ子はじめ連れの子供たちは逃げかかつてゐて、老婢より相当離れてゐた。老婢はまた懐柔して防ぐに之《し》くはないと気を更《か》へたらしく、強《し》ひて優しい声を投げた。
「ねえ、みんな、おまへさんたちいゝ子だから、この蔦の芽を摘むんぢやないよ。ほんとに頼むよ」
 流石《さすが》の子供たちも「あゝ」とか「うん」とか生《なま》返事しながら馳《は》せ去る足音がした。やつと私は潜戸《くぐりど》を開けて表へ出てみた。
「ばあや、どうしたの」
「まあ、奥さま、ご覧遊ばせ。憎らしいつたらございません。ひろ子が餓鬼《がき》大将で蔦の芽をこんなにしてしまつたのでございます。わたくし、親の家へ怒鳴《どな》り込んでやらうと思つてゐるんでございます」
 指したのを見ると、門の蔦は、子供の手の届く高さの横一文字の線にむしり取られて、髪のおかつぱさんの短い前髪のやうに揃《そろ》つてゐた。流行を追うて刈り過ぎた理髪のやうに軽佻《けいちょう》で滑稽《こっけい》にも見えた。私はむつとして「なんといふ、非道《ひど》いこと。いくら子供だつて」と言つたが、
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