見え、優婉な声で投げ節[#「投げ節」に傍点]が聞えて来ます。
 渡りくらべて世の中見れば阿波の鳴門に波もなし――
 ここの座敷では法眼の錆《さ》びて淡々たる声で唱え出されました。
 なむ きえ ぶつ――
 なむ きえ ほう――
 なむ きえ そう――
 それを自然にまぬて口唱して居るうちに若い女たちは心の底から今までに覚えたことの無い明るい、しんみりした気持ちにさせられて、合せた手にも自ずから力が入りおやおや涙が出ると自分で不思議がるほど甘い軽快な涙が自然に瞼をうるおしているのでした。
 なむ きえ ぶつ――
 なむ きえ ほう――
 なむ きえ そう――
 一同はそれを繰り返しました。汲みかえられて、水晶を張ったような手水鉢《ちょうずばち》の水に新月が青く映っています。
 それが済んで二人は
「さて、帰ろう。御主人勘定はいくらですか」
「いえ、御出家からは頂戴致しません」
「ほほう、それは奇特な事ですな」

 二人の清僧は寄寓の寺へ帰りました。そして大得意で茶屋見学の様子を若い僧たちに話して聴かせました。そして次の意見を附け加えました。
「成程《なるほど》、茶屋というところはよいところだ、若い僧の行き度がるのも無理はない。礼儀が正しくて、御馳走をして呉れて、金を取らんというのだから。あすこなら、みんなもせいぜい行きなさい」
 青年僧達は茶屋の実際を経験してよく知って居ましたが、この二僧の茶屋探検観察談を聞いてからは、ふっつり内証の茶屋遊びを止めて仕舞いました。
 一方、祇園の四郎兵衛の茶屋の女中たちは互いに噂をし合っていました。
「あの老僧たちは何という腕のある人達だろう。たった一時にしろ、あんなに人をしみじみした気持ちにさしてさ。私たちは幾つかの恋愛をしたけれども、どんな恋人からもあんな気持ちにさせられた事は一遍も無かった」



底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「老妓抄」中央公論社
   1939(昭和14)年3月18日発行
初出:「禅の生活」
   1935(昭和10)年6月号
入力:門田裕志
校正:オサムラヒロ
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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