の奴婢を貯え女貴族のようなくらしをしていた。この中に入った麗姫が努めずしてたちまちその三人を抜いて仕舞ったというのには、何か彼女に他と異なった技巧でも備って居たのかと云うに、却ってそれは反対であるとも云える。彼女は我儘で勝手放題気にいらなければ貴顕の前で足を揚げ、低卓の鉢の白|牡丹《ぼたん》をその三日月のような金靴の爪先きで蹴り上げもした。興が起れば客の所望を俟《ま》たないで自ら囃《はやし》を呼んで立って舞った。悲しみが来れば彼女は王侯の前でも声を挙げてわあ、わあ泣いた。涙で描いた眼くまの紅が頬にしたたれ落ち顎に流れてもかまわなかった。それから彼女は突然誰の前でも動かなくなり暫く恍惚《こうこつ》状態に陥ることがある。何処《どこ》を見るともない眼を前方に向け少しくねらす体に腕をしなやかに添えてそのままの形を暫く保つ――そなたは何を見て何を考えるのかと問う者があれば、わたくしは母のことを始め一寸《ちょっと》想い出します。父が讒《ざん》せられた後の母は計られない世が身にしみて空を行く渡り鳥の行末さえ案じ乍ら見送りました。でも、その苦労性な母を思ってわたくしは、そんな苦労は、いや、いや、わたくしはわたくしの有りのまま、性のままこの世のなかを送りましょう、と直ぐ思い直すとそれはそれはよい気もちになり恍惚として仕舞います――、と彼女はあでやかに笑うのであった。その申訳《もうしわけ》は嘘かまことかともかく麗姫のその状態を人々は「麗姫の神遊」と呼んで居る。そのとき薄皮の青白い皮膚にうす桃色の肉が水銀のようにとろりと重たく詰った麗姫のうつくしさはとりわけたっぷりとかさ[#「かさ」に傍点]を増すのであった。麗姫はまた、随分客に無理な難題を持ちかけた。荘子のパトロン支離遜は決して彼女に色恋の望みをかけてのパトロンではなかったが、それだけにまた彼女は余計甘え宜かった。ある時は西の都の有名な人形師に、自分そっくりな生人形を造らせて呉れとせがんだ。それからまた東海に棲む文※[#「魚+搖のつくり」、第4水準2−93−69]魚《ぶんようぎょ》を生きたままで持参して見せて呉れとねだった。その魚は常に西海に棲んで居て夜な夜な東海に通って来る魚だなぞと云われて居た珍らしい魚であった。この魚に就いて書かれてある山海経《せんがいきょう》中の一章を抽《ひ》いてみる=状如鯉魚、魚身而鳥翼、蒼文而首赤喙、常行西海、遊於東海、以海飛、其音如鶏鸞。
だが東海の海近い姑蘇《こそ》から出発して揚子江を渡り、淮河《わいが》の胴に取りついてその岸を遡《さかのぼ》り、周の洛邑へ運ぶ数十日間その珍魚を生のままで保つことは、殆ど至難な事だった。支離遜はしかし或る神技を有する老人に謀って麗姫のその望みをかなえてやった。ただし老人はそれを運ぶ水槽のなかの仕掛けは誰にも見せなかったという話だ。
荘子はこんな事をうつらうつら考え乍ら小さい燭の下で妻の田氏と沈黙勝ちな夜食を喰べて居た。考えれば考える程不思議な麗姫の存在だった。彼女は彼女が我儘をすればする程彼女の美しさを発揮するのだ………道は道なき処に却って有るのではないか、彼女の如く拘束なき処に真の生命の恍惚感が有るのではなかろうか……。
「あなた、遜さんが何かまた麗姫の珍らしい話でもして参りましたか」
妻の言葉に荘子ははっとしたが、まさか一婦人の存在を自分の「道」に係わる迄考慮して居たとも云い度くなかった。
「別に珍らしい話というでもないが相変らずやんちゃで美しいと云ってた」
と答え、それに申わけばかり云い足して、麗姫が池の魚の逃げたのを恨んだ話をつけ加えて何気ない様子で軽く笑ったが悧巧な田氏は大方夫の胸中は察して居た、しかも、何事も夫の気持ちのリズムに合わせようとして矢張り夫と同じその話を軽い笑いで受けた。
「ほ、ほ、ほ、相変らず可愛ゆい娘でございますね」
だが荘子はまたそれに重ねて笑う気持にもなれず、相変らず不味《まず》そうにもそりもそり夜食の箸《はし》を動かして居る。
妻の田氏は魏の豪族田氏の一族中から荘子の新進学徒時代にその才気|煥発《かんぱつ》なところに打ち込んで嫁入って来たものであった。それが荘子が途中「道」に迷いを生じ始め漆園《しつえん》の官吏も辞め華々しかった学界の生活からも退いて貧しい栄えない生活にはいってからも、昔の豪奢《ごうしゃ》な育ちを忘れ果てた様に、何一つの不平もいうところなく彼に従って暮して居る。きりょうも痩《や》せては居るが美しかった。荘子もこの妻を愛して居る。だが、荘子はこの妻の貞淑にもまた月並な飽足《あきた》りなさを感じるのだった。つまり貞淑らしい貞淑は在来の「道らしい道」に飽きた荘子にとって無上の珍重すべきものではなかった。悧巧な田氏は夫の自分に対するその心理さえ薄々知って居てあえて不平も見せなかった。
小童を手伝わして食卓を撤したあと、袖をかき合せて夜風の竹の騒ぐ音を身にしませ乍ら、田氏はなるたけ夫の感情を刺戟しないようさりげなく云った。
「ねえ、あなた。あなたもたまには洛邑にでも出てお気晴らしをなさっていらっしゃいませ、こんな田舎で長いこと毎日独で考え込んでばかり居らっしゃるのはお体の為によくありませんでしょう」
田氏はまた燭の火に一層近づいて髪の銀|簪《かんざし》がすこし揺れるくらいの調子でつけ加えた。
「ねえ、洛邑に沙汰《さた》して置いて遜さんが次の商用で旅に出ないうちに一度是非行っていらっしゃいませ。そして久しぶりであの無邪気な麗姫にも逢ってごらんなさいませ。案外、お気持も晴れて、御勉強の道も開けて参るかも知れません」
荘子はじっと瞳を凝らして妻の顔を見た。妻が、決して、りんきやあてこすりで麗姫に逢えと云うので無いことは判り過ぎるほど判って居た。それでも荘子は深く妻のその言葉に感謝するという単純な気持ち以外にあまりにこの女の貞淑の誂《あつら》え通りに出来上って居る、というような不思議な気持ちで妻の顔をじっと見て居た。
夜の寝箱にとじ込められる数羽の家鴨《あひる》のしきりに羽ばたく音がしんとした後庭から聞えて来る。
その後一ヶ月ばかりして荘子は妻の熱心なすすめ通り兼ねて沙汰して置いた支離遜からの迎えもあっていよいよ洛邑へ向けて旅立った。
秋も末近いのでさすがに派手な洛邑の都にも一かわさび[#「さび」に傍点]がかかっていた。さしも天下に覇を称えられていた周室はすっかり衰えて形式だけの存在になったが、その都である洛邑はやっぱり長い間の繁昌の惰性もあり地理的に西寄りではあるが当時の支那の中心に位し諸国交通の衝路に当りつつ歌舞騒宴の間に説客策士の往来が行われ諸侯の謀臣と秘議密謀するの便利な場所であった。
荘子が遜に連れられ洛邑の麗姫の館に来たのは夕暮を過ぎて居た。二人は中庭を取囲むたくさんの部屋の一つに通された。星の明るい夜で満天に小さい光芒が手を連ねていた。庭の木立は巧《たくみ》に配置されていて庭を通して互いの部屋は見透さぬようになっていた。窓々には灯がともり柳の糸が蕭条《しょうじょう》と冷雨のように垂れ注いでいた。
二人が侍女を対手《あいて》に酒を呑み出して居るところへ「蠅翼《ようよく》の芸人」が入って来た。半身から上が裸体で筋肉を自慢に見せて居る壮漢が薄手の斧《おの》を提げて来た。あとから美しく着飾った少女が鼻の尖にちょんぼり白土を塗って入って来た。その白土の薄さは支那流の形容でいえば蠅の翼ほどだった。少女は客の前へ来てその白土に触れさせないようにその薄さだけを見せて置いて床へ仰向けに大の字なりに寝た。壮漢は客に一礼して少女の側に突立った。斧が二三度大きく環を描いて宙に鳴った。はっという掛声と共に少女の鼻端の白土は飛び壁に当ってかちりと床に落ちた。少女はすぐさま起き上って嬌然と笑った。こんもり白い鼻は斧の危険などは知らなかったように穏かだった。壮漢はその鼻の上を掌で撫でる形をして「大事な鼻。大事な鼻」と云った。遜も侍女たちも声を挙げて笑った。戦国の世には宴席にもこういう殺気を帯びた芸が座興を添えた。
目ばたきもせず芸人の動作に見入っていた荘子はつくづく感嘆して訊いた。
「これには何か、こつがあるのかね」
壮漢は躊躇《ちゅうちょ》なく答えた。
「こつは却って、この相手の娘にあるんです。この娘は生れついてから刃ものの怖ろしいことを知らないんです。斧に向っても平気でいます。それでわたくしはやすやす斧を揮《ふる》えるのです」
荘子は「無心の効能」に思い入りながら少女を顧みた。少女は侍女の一人から半塊の柘榴《ざくろ》を貰って種子を盆の上に吐いていた。それを喰べ終ると壮漢に伴われ次の部屋へ廻りに出て行った。
薫る香台を先に立てて麗姫が入って来た。部屋の中は急に明るくなった。彼女はその美を誰にも見易くするように燭の近くに座を占めた。
彼女は生れつきの娥※[#「女+苗」、283−11]《がぼう》靡曼《びまん》に加えて当時ひそかに交通のあった地中海沿岸の発達した粉黛《ふんたい》を用いていたので、なやましき羅馬《ローマ》風の情熱さえ眉にあふれた。
彼女の驕慢も早く洛邑に響いた稀世の学者荘子には一目置いて居た。彼女はおとなしく荘子の前に膝まずいた。
「よくお越し下されました。随分お久しぶりにお目にかかります」
「田舎へ入って仕舞ってどちらへも御無沙汰ばかりです。だが、あなたは相変らずで結構ですな」
「はい、有難う御座います。お蔭さまをもちまして………あのお宅さまでは奥様も御機嫌およろしゅう御座いますか」
「先ごろから少々わずらって居ますがさしたることもありません。大方なれない田舎棲いでいくらかこころが鬱したからででもありましょう」
「ちと都の方へもお出向き遊ばすよう御言伝えて下さりませ」
「懇《ねんごろ》なお心づかい有難う、とくと申伝えてつかわしましょう」
しかし、荘子と麗姫の儀礼をつくした言葉のやりとりはその辺で終った。やがて麗姫は何もかも忘れてしまって自分の興そのものだけを空裏に飛躍させ始めた。荘子はその境地を見るのを楽しみにしてこそ麗姫に逢いに来たのである。彼は心陶然として麗姫の興裡に自分も共に入ろうとした。
「………海上に浪がたつ時、その魚は翼をのばして、一丁も二丁も浪の上を飛ぶのですって」
彼女は、それを繰返し繰返し云うのであった。荘子は始め、彼女が何を云い出したのかと思ったらそれは先頃支離遜に無理難題を云いかけてはるばる東海から彼女が取寄せて貰った生きた文※[#「魚+搖のつくり」、第4水準2−93−69]魚の話であった。彼女はそれを折角《せっかく》生きたままで手許《てもと》へ運んで貰っても、彼女が洛邑の桶師につくらせた方一丈の魚桶では一向その魚がその本性の飛躍をしないでしおしおと水につばさをしぼめて居るのが残念だというのである。さてこそ彼女は身ぶり手まねでその魚が東海の浪の上を飛ぶであろう形まで真似てひとつには彼女の心やりとし、人に訴えてかなわぬ願いの鬱憤を晴すのだった。
「海上に浪が立つ時、その魚は翼をのばして浪の上を一丁も二丁も飛ぶのですって」
彼女は幾度か目にそれを云ったあと、ころころと声を高欄の黄金細工にまで響かせて笑った。だがその笑いのあとの眼を荘子にとどめると彼女は真面目に支離遜に向いて云った。
「荘先生はお変りになりました。もと洛邑にお居での時は私のたわ言など、こんなに真面目に聞き入っては下さいませんでした。何か鋭いまぜ返しを仰《おっしゃ》るか、ほかのお方とお話をなさるかでした」
「まあ、そうむきにならなくとも宜い。先生は田舎へ退隠なされてからずっと渋くおなりなされたのです」
「そう仰ればもとはあんなにお美しかったお顔も鉛色におくすみなされて………して、その先生が何故わたくしなどをお招びになり馬鹿らしい所作にさもさも感に堪えたような御様子をなさいますのやら」
支離遜は手持ち無沙汰に苦笑して居る荘子の方を見やり乍ら何と返事をしたものかと迷って居たが、麗姫がむやみに返事をせき立ててやまないのでとうとう云って仕舞った。
「先生はな………実はな
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