確《たしか》に世の中の実情を握んで居た。彼はその説明を終えるときこういう言葉をつけ足した。
「何もかも猫の眼のように変って行きます。しかし、そのうちにたった一つ変らないものがありますな。それは洛邑の名嬪《めいひん》麗姫の美しさですかな」
 遜はあはははと笑った。その笑いには野暮な学者に向って縁の遠い女の話をすることの奇抜さを面白がる響があった。
 ところが荘子は意外にも熱心な色を顔に現わして来た。
「麗姫は近頃どうして居るかね」
 これには遜もあっ気にとられた。あなたのような堅人がどうして麗姫のことを御気に掛けられますかと問わざるを得なかった。荘子はあっさり、それは世間で評判の女だし洛邑では妻まで親しくして居たのだからと答えたが怪しく滑った調子だった。しかし荘子を信じて居る遜はなるほどとうなずいてから学者にも興味のありそうな麗姫の最近の逸話を彼に語った。
 ある夏の日の夕であった。麗姫は自分の館の後園の池のほとりを散歩して居た。池には新しく鯉《こい》が入れてあった。麗姫は魚を見ようと池のへりに近寄った。鯉たちは人の影を見て急いで彼方の水底へ逃げた。水が彼女の裳《も》に跳ねた。しばらく顔を真赫《まっか》にして居た麗姫がやがて
「なんという失礼な魚達だろう。わたしは今まで誰にもこんな素気ないそぶりをされたことがない。いくら無智な魚でもあんまりひどい」
 と子供のようにやんちゃに怒り出したという噂を話し終って遜は前にも増して転げるように笑った。
「どうです。魚にまで恨みごとを云う女です」
 といってまた笑った。荘子もつき合いに笑って見せたが彼の憂鬱な顔には一種の興奮を抑えた跡が見えた。
 支離遜は襟《えり》をかき合せて立上った。
「お訣《わか》れいたします。今度は忙しくてお宅でゆるゆるさせても頂けません。この次にはぜひお訪ねいたします。それまでに一つあなたもあっと云わせるような学説を立てて世間を驚かせて欲しいですな」
 支離遜の乗った旅車の轍のひびきが土坡の彼方に遠く消えて行った。
 日はいつの間にか暮れた。櫟社の大木は眠って行く空に怪奇な姿を黒々と刻《きざ》み出した。この木を塒《ねぐら》にしている鳥が何百羽とも知れずその周囲に騒いで居た。鳴声が遠い汐鳴りのように聴えた。田野には低く夕靄《ゆうもや》が匍って離れ離れの森を浮島のように漂わした。近くの村の籬落《まがき》はまば
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