らででもありましょう」
「ちと都の方へもお出向き遊ばすよう御言伝えて下さりませ」
「懇《ねんごろ》なお心づかい有難う、とくと申伝えてつかわしましょう」
しかし、荘子と麗姫の儀礼をつくした言葉のやりとりはその辺で終った。やがて麗姫は何もかも忘れてしまって自分の興そのものだけを空裏に飛躍させ始めた。荘子はその境地を見るのを楽しみにしてこそ麗姫に逢いに来たのである。彼は心陶然として麗姫の興裡に自分も共に入ろうとした。
「………海上に浪がたつ時、その魚は翼をのばして、一丁も二丁も浪の上を飛ぶのですって」
彼女は、それを繰返し繰返し云うのであった。荘子は始め、彼女が何を云い出したのかと思ったらそれは先頃支離遜に無理難題を云いかけてはるばる東海から彼女が取寄せて貰った生きた文※[#「魚+搖のつくり」、第4水準2−93−69]魚の話であった。彼女はそれを折角《せっかく》生きたままで手許《てもと》へ運んで貰っても、彼女が洛邑の桶師につくらせた方一丈の魚桶では一向その魚がその本性の飛躍をしないでしおしおと水につばさをしぼめて居るのが残念だというのである。さてこそ彼女は身ぶり手まねでその魚が東海の浪の上を飛ぶであろう形まで真似てひとつには彼女の心やりとし、人に訴えてかなわぬ願いの鬱憤を晴すのだった。
「海上に浪が立つ時、その魚は翼をのばして浪の上を一丁も二丁も飛ぶのですって」
彼女は幾度か目にそれを云ったあと、ころころと声を高欄の黄金細工にまで響かせて笑った。だがその笑いのあとの眼を荘子にとどめると彼女は真面目に支離遜に向いて云った。
「荘先生はお変りになりました。もと洛邑にお居での時は私のたわ言など、こんなに真面目に聞き入っては下さいませんでした。何か鋭いまぜ返しを仰《おっしゃ》るか、ほかのお方とお話をなさるかでした」
「まあ、そうむきにならなくとも宜い。先生は田舎へ退隠なされてからずっと渋くおなりなされたのです」
「そう仰ればもとはあんなにお美しかったお顔も鉛色におくすみなされて………して、その先生が何故わたくしなどをお招びになり馬鹿らしい所作にさもさも感に堪えたような御様子をなさいますのやら」
支離遜は手持ち無沙汰に苦笑して居る荘子の方を見やり乍ら何と返事をしたものかと迷って居たが、麗姫がむやみに返事をせき立ててやまないのでとうとう云って仕舞った。
「先生はな………実はな
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