寂しくしといた埋合せがいくらかつく。おれは千代重君に礼をいっていい。場合によったらおれはこの組合からはずされてもいい。なにおれは独りで悲しみや寂しさを味わう方が、幸福に想える不思議な人間だ」
これが手前勝手ばかりの男のいうことであろうか。栖子はこういう時の尾佐の頭に、恋愛時代に見たと同じ真摯なものを見たのであった。栖子は思う。自惚《うぬぼれ》かも知れないけれども、尾佐は根から寂しい男だったのを、自分だけがこの男に一時でも花やかなものを引き出してやった。尾佐に一生に一度の青春を点火してやったのだ。
想えばいじらしい相手だ。尾佐はいまどこで寂しい白日の酒を忸怩《じくじ》として飲んでいるであろうか。
栖子の両手の指先きが、つやつやした豆莢《まめざや》の厚い皮をぺちゃんと圧し潰し、小さい鼻から目の醒めるような青い匂いを吸い込みながら、莢の裂け目へ右の指先を突き入れると、彼女の指先になまなましい柔かいものが触た。彼女は、「きゃっ!」といって莢を抛《ほう》り出した。
中の間との仕切りの襖《ふすま》が開いて、縞《しま》のブラウズを着た千代重が悠然と出て来た。手にはゴムの洗濯手套をはめている。「なんて頓狂な声です。赤ん坊が起きるじゃないか」
千代重がこんなにずけずけいうときは最も相手を愛しむ気持に充たされているときなのだ。
千代重は傍へ来て、体を曲げて栖子が抛り出した豆の莢を拾った。千代重は豆の莢の内部を近眼鏡をかしげて覗き込み、それから左の手套の水気をブラウズの腰でこすり取って、竿を眼にうけさせ、莢の破り口を逆にしてとんとんとはたいた。微かにお歯黒をつけた蚕豆の粒の一つと一緒に繊弱《かよわ》い豆の虫が一匹落て出た。
虫の早稲の米粒のような白い地体は薄樺色の皮膚に透けていた。口に金環色を嵌めていた。虫は拗《す》ねるように反ったり屈んだりした。再び眼鏡を近づけて眺め込んでいた千代重の顔は、だんだん微笑に膨れて行った。千代重は蚕豆を捨てて虫だけの掌をぐいと突出した。
「可愛い虫じゃないか。ご覧なさい」
栖子は距離を作り、逃げ腰を用意して佇んでいた。突き出された掌から逃げはしなかったが、「きゃっ!」と銜《ふく》み声で叫んだ。
栖子は帯の間からハンカチを引き出して、千代重の顔にぱっと投げつけながら、
「だめよ。そんなもの見せちゃ。あたしが裸虫が大嫌いなこと、あんた知ってるじゃありませんか」
千代重は顔を振ってそれを除けると、ハンカチは地上に落ちた。栖子が立ち上って逃げ出した時の丸い白い踵や、細い胴に縊《くび》れ込まして締た、まだ娘々した帯つきが妙に千代重を焦立たしくした。
彼はちょっと意地悪く唇を笑い歪めながら、
「園芸家の妻がこれんばかしの虫を怖がって、我儘過ぎるよ。ちと慣れるようにし給《たま》え」
彼は掌を突き出して栖子を逐《お》った。
「いけない。傍へ来ちゃ――」
花やかな乱れた姿が古畳を蹴ってよじれ飛んだ。軽い埃が立って襖ががたがたいった。
千代重は残忍な興味を嵩じさせて、とうとう部屋の隅まで栖子を逐いつめた。千代重はここでその脅迫を一層効果的にしようと考えた。
「栗の虫だの、桃の虫だのって、すべて毒になるものじゃないよ。僕は田舎で育ったからよく知ってるが、柳の虫なんか子供の薬になるっていう位だ。一つ見せしめに僕がこの虫を食べて見せましょう」
千代重は掌の上へ開けた口を臨ましてちらりと栖子を見上げた。絶体絶命の表情をしていた栖子の眼の色がキラリと光った。あわや持って行きかけた千代重の左の手首を、突然かの女の両手が飛び出して握り締た。千代重の手首は折れる程痛かった。
「あんた真当《ほんとう》にそんな真似をする気※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
かの女は息を喘がした。
「一緒に生活しているものが、そんな嫌なことをするのは、あたしがするのも同然、気味悪いわ。止《よ》して頂戴! 止して頂戴!」
かの女の躍起となった瞳から、かの女の必死に掴んだ指から、千代重が今まで栖子からうけたことのない感覚が、薄荷《はっか》を擦り込むような痛さと共に骨身に浸み込んだ。
すると、千代重は暫らく何の判断もなくなり、ただ身軽な自分がほんのり香水に温められるように、気遠くなった。掌の虫はどこかへ飛んでしまっていた。
手首の痛みがゆるめられて来ると、千代重はただなつかしい世界に浮き上り、自分の唇の真向きの位置に、少し盛り上った栖子の唇が意識された。
生身の唇と唇とは、互いに空気に露き出しになっているのを早く庇い度いように、間の距離を縮めて来た。しかし、千代重はぴくりとして、そこで止った。
「この情勢のままに従って行ったら、結局、普通平凡な男女間の暗黒な恍惚に陥るだけだ。肉体的の生命を注ぎ合うほど情感の濃い匂いは発散して、人間を白けさ
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