、尾佐を踏花園に訪ねて来たことがあるので、栖子は未知な間柄ではない。しかし、そんなときに遠慮深く、抒情派の文学青年のように憧憬的に少ない口数を利いたこの青年が家庭に来てくれてからは、事務的にも経済的にも驚くべき才能を発揮して、ほとんど一人で家事やこどもの世話まで切り廻してくれるのには驚嘆した。その上この青年には病的と思えるほど敏感に、女ごころの委曲に喰い入って、それにぴったり当嵌まる処置や捌《さば》きをつけてくるのには一種のもの憎ささえ感じた。時には女の始末すべきものまで彼は片付けにかかるので、栖子はいった。
「そこまでして戴《いただ》いては済みませんわ。そこまでして戴いては…………恥かしい…………あたし………」
 すると千代重の深切は権柄ずくになるほど、却《かえ》って度を増すのである。
「この位なこと恥かしがることがありますか、恋愛したり、子供を産んだり、さんざん恥かしいことを平気でして来た癖に」
 栖子は黙って任すより仕方がなかった。
「でも、どうして千代重さんはそんなに女のことをよく知ってらっしゃるの、不思議だわ」
「ちょうどあなたと同じようなぼんやりの従姉が、僕にありましてね。小さいときから、しょっちゅう面倒を見てやらなきゃならなかったんです。僕だって男ですから、あんまりこんなこたあしたかありませんよ」
 そうはいいながら、真実千代重は非実用的な女の面倒を見るのに適している風だった。

 手足のないような若い主婦と、すべてを引受けて捌いてやる青年の助手。この間に事が起りそうで、案外さらさらと日常が過ぎて行った。
 栖子はやっぱり尾佐を想っていた。彼は今こそ性格が朦朧となりつつあれ、溌剌とした恋愛時代の尾佐の熱情を憶って、栖子はその夢の尾をまだ現実の尾佐の上に繋いでいるとでもいったらいいかも知れない。
 栖子は千代重が指図して行った蚕豆《そらまめ》の莢《さや》を盆の上で不手際に剥ぎながら、眼はぼんやり花畑を眺めていた。
 チューリップがざわざわと葉擦れの音を立て、花は狼藉に渦巻いた。風が吹くたびに、空気は揺れて、チューリップの紅と鬱金《うこん》とのよじれた色が、閃きうねり宙に上昇するように見えた。畑の一部にある金蓮花はほとんど苅り取られ、園の苗床に冠せてある葭簀《よしず》や、フレームの天井は明るみ切って、既に夏になり切っている。
 腐葉土の醗酵した匂いが眼にか鼻にか判らない幽かな刺戟で浸みると、濁酒のような親しげな虚無的な陶酔をほんのり与えた。
 白い蝶が二つか三つか、はっきりしない縺《もつ》れた飛び方で、舞い下って来て、水吐けの小溝の縁の西洋|韮《にら》の花の近くで迷っている。西洋韮の白い花に白い生きものが軽く触れて離れる。そこの陽の光の中に神秘な空間がきらめく。
 栖子は指先を莢の豆に無意識に動かしながら、心を遠くうねり尖らして、横浜の園芸会社へ、オランダから到着した新種のカーネーションの種子を取りに行くといって出て行き、五日も帰らない尾佐の挙措を探り廻した。
 また飲んで歩いていることは判っているけれども、彼には何となく憐れに懐しいところがあった。彼の性格が朦朧として、無口に白け切って来るほど、その淡い魅力は、水明りのように冴え出して来て、彼女を牽き寄せる。彼はたまたま沈黙の中から、僅かに一度いったことがある。
「おれがどんな美事な新種の花を作ったからとて、それがいつまでも最上だというわけではなし、次の誰かがすぐその上の美事なものを作るにきまっている。
 花はおれの一番好きなものだから作るようなものの、考えて見ればつまらない。といって、他におれが手を出し度いような仕事は世の中に何もなし――」
 栖子はあんな堅い誓いの言葉やら、逞ましい情熱で自分を襲って、自分から処女も処女の豊かな夢をも奪い取って置きながら、三年たつか経たないうちに、自分の勝手な失望に耽溺する尾佐を無責任だと憎まないわけにはいかない。
 けれども、現実的にも現実な世の中にこんな先の先まで掻い潜った無益な失望をしている人間があるであろうか。尾佐はあるいは非凡人とでもいう性格ではあるまいか。栖子は強《し》いて尾佐を非凡人としていくらかの尊敬の念をも湧かしてみた。あるいはまた、それは自分という女に飽き、同棲というものに飽きた筋違いの不満の現わし方と見れば、見られぬこともないけれども、どうもその解釈だけでは解釈し切れない底の性格が、この尾佐にはあるらしくも栖子には思われた。尾佐は千代重がだんだん家庭に慣れて来たとき、珍らしく嬉しそうな顔をして彼女にいった。
「おれがだんだん人事に興味を喪う人間になるのに引きかえ、千代重君はいつも溌剌としている。生活の組合員としては面白い資格者だ。おれの助手とはいいながら、実は君の相手に来て貰ったようなものだ。それでおれが君を
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング