唇草
岡本かの子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)流行《はや》り
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)西洋|韮《にら》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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今年の夏の草花にカルセオラリヤが流行《はや》りそうだ。だいぶ諸方に見え出している。この間花屋で買うとき、試しに和名を訊ねて見たら、
「わたしどもでは唇草といってますね、どうせ出鱈目《でたらめ》でしょうが、花の形がよく似てるものですから」
と、店の若者はいった。
青い茎の尖に巾着のように膨らんで、深紅の色の花が括《くく》りついている。花は、花屋の若者にそういわれてから、全く人間の唇に見えた。人間の唇が吸うべきものを探し当てず、徒《いたず》らに空に憧れている。情熱だけが濡れた唇に遺って風が吹いて、苞《つと》の花がふらふら揺れるときには一層悩ましそうに見える。そしてこの花はこういってるようである。
「私の憧れを癒やすほどのものは現実にはない」
これは私の従弟《いとこ》の千代重が外遊するまで、始終口癖にいっていた言葉と同じである。ふとこの言葉を千代重が囁いたと思うほど、花は従弟の唇を思い出させた。ふっくりしていて、幼くてしかも濡れ色に燃えている。それはやや頬の高い彼の青白い顔に配合して、病的に美しかった。彼の歯は結核性に皓《しろ》く、硬いものをばりばり噛むのを好いた。
千代重がまだ日本にいたある年の初夏のころである。この従弟は私の稽古先のハープの師匠の家へ私を訪ねて来て、そこから連れ立って、山の手の葉桜がまばらに混る金目黐垣《かなめもちがき》が、小さい白い花を新芽の間につけている横町を歩きながら、いった。
「僕寄宿舎を出て、ある先輩の家へ引越すから、伯父さんにはうまくいっといて下さい」
私は従弟の今までの妙な恋愛事件の二三を知ってるものだから、どうやらまたおかしいと疑って訊ねた。
「どんな家なの。どういうわけよ」
すると、従弟は唇をちょっと尖らして、口角を狐のように釣り上げ、モナリザの笑を見せていった。嬢
「可哀そうなんだよ。その家の主婦が、お嬢さん[#「お嬢さん」は底本では「お譲さん」]育ちの癖に貧乏して仕舞っ
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