鼻にか判らない幽かな刺戟で浸みると、濁酒のような親しげな虚無的な陶酔をほんのり与えた。
白い蝶が二つか三つか、はっきりしない縺《もつ》れた飛び方で、舞い下って来て、水吐けの小溝の縁の西洋|韮《にら》の花の近くで迷っている。西洋韮の白い花に白い生きものが軽く触れて離れる。そこの陽の光の中に神秘な空間がきらめく。
栖子は指先を莢の豆に無意識に動かしながら、心を遠くうねり尖らして、横浜の園芸会社へ、オランダから到着した新種のカーネーションの種子を取りに行くといって出て行き、五日も帰らない尾佐の挙措を探り廻した。
また飲んで歩いていることは判っているけれども、彼には何となく憐れに懐しいところがあった。彼の性格が朦朧として、無口に白け切って来るほど、その淡い魅力は、水明りのように冴え出して来て、彼女を牽き寄せる。彼はたまたま沈黙の中から、僅かに一度いったことがある。
「おれがどんな美事な新種の花を作ったからとて、それがいつまでも最上だというわけではなし、次の誰かがすぐその上の美事なものを作るにきまっている。
花はおれの一番好きなものだから作るようなものの、考えて見ればつまらない。といって、他におれが手を出し度いような仕事は世の中に何もなし――」
栖子はあんな堅い誓いの言葉やら、逞ましい情熱で自分を襲って、自分から処女も処女の豊かな夢をも奪い取って置きながら、三年たつか経たないうちに、自分の勝手な失望に耽溺する尾佐を無責任だと憎まないわけにはいかない。
けれども、現実的にも現実な世の中にこんな先の先まで掻い潜った無益な失望をしている人間があるであろうか。尾佐はあるいは非凡人とでもいう性格ではあるまいか。栖子は強《し》いて尾佐を非凡人としていくらかの尊敬の念をも湧かしてみた。あるいはまた、それは自分という女に飽き、同棲というものに飽きた筋違いの不満の現わし方と見れば、見られぬこともないけれども、どうもその解釈だけでは解釈し切れない底の性格が、この尾佐にはあるらしくも栖子には思われた。尾佐は千代重がだんだん家庭に慣れて来たとき、珍らしく嬉しそうな顔をして彼女にいった。
「おれがだんだん人事に興味を喪う人間になるのに引きかえ、千代重君はいつも溌剌としている。生活の組合員としては面白い資格者だ。おれの助手とはいいながら、実は君の相手に来て貰ったようなものだ。それでおれが君を
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