して仕舞うものだ。いけない。栖子と尾佐の結婚後の白け方を見よ!」
 栖子も何となく躊躇するものの如く、唇に躾《しつけ》を見せて来て、眼を落した。
「あたし……虫ぐらいにこんなに怖がって……しんは確《しっ》かりしている積りだけど末梢神経が臆病なのね」
 千代重は栖子の丸い額に憂鬱にかかる垂れ毛をやさしく吹き除けて、軽く自分の唇を触れた。
「栖子がどんな虫にも、どんな男にも負けなくなりますように」
 こんな謎のような言葉に紛らして千代重は青春の空に架けた美しい虻をなかば心に残した。

 千代重がオランダへ園芸の留学に行くことにきまって、私は彼を神戸まで送って行った。すっかり支度をしてしまってもう明日は船に乗り込めばいいことにして、千代重は私とGホテルのベランダで、夏の夜更けまで、港の灯を眺めながら語った。彼は彼の日本で暮した青年期の出来ごとに就て、さまざま語った。特に恋愛に就て………。
「僕が今まで恋した娘は、みな僕のことを判らない性質だといって不思議がりますが、僕からいわせればその女達こそ判らないといい度いのです。僕が望むことは極めて簡単です。『恋愛の情熱を直ぐ片付けないこと』僕はお姉さん(従弟は私のことをこういい慣わしていた)のように今どき大時代な悠長なことは考えていませんが、しかし、肉体的情感でも、全然肉体に移して表現して仕舞うときには、遅かれ早かれその情感は実になることを急ぐか、咲き凋《しぼ》んで仕舞うかするに決ってることだけは知っています。つまり、結婚へ急ぐか、飽満して飽きて仕舞うか、どっちかですね。そこで恋愛の熱情は肉体に移さずなるだけ長く持ちこたえ、いよいよ熱情なんかどうでも人間愛の方へ移ったころに結婚なり肉体に移せば好い、どういうものか女というものは先を急ぎます。不安らしいですね。私がそういう道を骨を折って歩いて行くと彼女らは僕を疑ったり、或《あるい》は焦れて自棄《やけ》を起して仕舞います。一人の娘などはそのために自殺するとまでいいました。僕は熟々《つくづく》世の中の女に絶望して仕舞いました。女はじき片付けたがる。つまり打算の距離が短いんですね。
 栖子は恋愛の熱情をそのまま実際的な結婚に移して失敗しただけにややこの道を解した女でした。だがかの女は人妻という位置から論理的に考えて『これからお互に真当の姉弟になりましょうね』と月並なことをいい始めたんです。
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