私塾を開いていた。伯母も身うちには薄倖《はっこう》の女で、良人《おっと》には早く死に訣《わか》れ、四人ほどの子供もだんだん欠けて行き、末の子の婚期に入ったほどの娘が一人残って、塾の雑事を賄《まかな》っていた。貧血性のおとなしい女で、伯母に叱《しか》られては使い廻《まわ》され、塾の生徒の娘たちからは姉さんと呼ばれながら少しばかにされている気味があった。何かいわれると、おどおどしているような娘だった。
伯母はむかし幼年で孤児となった甥の檜垣の主人を引取り少年の頃まで、自分の子供の中に加えて育てたのであったが、以後檜垣の主人は家を飛出し、外国までも浮浪《さまよ》い歩るいて音信不通であったこの甥に対し、何の愛憎も消え失《う》せているといった。しかし、このまま捨置くことなら檜垣の家は後嗣《あと》絶えることになるといった。
甥の檜垣の家が宗家で、伯母はその家より出て分家へ嫁に行ったものである。伯母はいった、自分の家は廃家しても関《かま》わぬ、しかし檜垣の宗家だけは名目だけでも取留めたい。そこで相談である。もし「それほど嫌でなかったら――」自分の娘を娶《めと》って呉《く》れて、できた子供の一人を檜垣の家に与え、家の名跡だけで復興さして貰い度《た》い。さすれば自分に取っては宗家への孝行となるし、あなたにしても親友への厚い志となる。「第一、貰って頂き度い娘は、檜垣に取ってたった一人の従兄弟女《いとこめ》である。これも何かのご縁ではあるまいか。」
始めこの話を伯母から切出されたときに鼈四郎は一笑に附した。あの※[#「風+陽のつくり」、第3水準1−94−7]々《ようよう》として芸術|三昧《ざんまい》に飛揚して没《う》せた親友の、音楽が済み去ったあとで余情だけは残るもののその木地《きじ》は実は空間であると同じような妙味のある片付き方で終った。その病友の生涯と死に対し、伯母の提言はあまりに月並な世俗の義理である。どう矧《は》ぎ合わしても病友の生涯の継ぎ伸ばしにはならない。伯母のいう末の娘とて自分に取り何の魅力もない。「そんなことをいったって――」鼈四郎はひょんな表情をして片手で頭を抱えるだけてあったが、伯母の説得は間がな隙《すき》がな弛《ゆる》まなかった。「あなたも東京で身を立てなさい。東京はいいところですよ」といって、鼈四郎の才能を鑑検し、急ぎ蛍雪館はじめ三四の有力な家にも小使い取りの職仕を紹介してこの方面でも鼈四郎を引留める錨《いかり》を結びつけた。伯母は蛍雪館が下町に在った時分姉娘のお千代を塾で引受けて仕込んだ関係から蛍雪とは昵懇《じっこん》の間柄であった。
何という無抵抗無性格な女であろうか。鼈四郎は伯母の末の娘で檜垣の主人の従姉妹《いとこ》に当るこの逸子という女の、その意味での非凡さにもやがて搦《から》め捕られてしまった。鼈四郎のような生活の些末《さまつ》の事にまで、タイラントの棘《とげ》が突出ている人間に取り、性抜きの薄綿のような女は却《かえ》って引懸り包《くる》まれ易い危険があったのだった。鼈四郎の世間に対する不如意の気持から来る八つ当りは、横暴ないい付けとなって手近かのものへ落ち下る。彼女はいつもびっくりした愁い顔で「はいはい」といい、中腰《ちゅうごし》駈足《かけあし》でその用を足そうと努める。自分の卑屈な役割は一度も顧ることなしに、また次の申付けをおどおどしながら待受けているさまは、鼈四郎には自分が電気を響かせるようで軽蔑《けいべつ》しながら気持がよいようになった。世を詛《のろ》い剰《あま》って、意地悪く吐出す罵倒や嘲笑《ちょうしょう》の鋒尖《ほこさき》を彼女は全身に刺し込まれても、ただ情無く我慢するだけ、苦鳴の声さえ聞取られるのに憶している。肌目《きめ》がこまかいだけが取得の、無味で冷たく弱々しい哀愁、焦《じ》れもできない馬鹿正直さ加減。一方、伯母は薄笑いしながら説得の手を緩めない。鼈四郎としては「何の」と思いながら、逸子が必要な身の廻りのものとなった。結婚同様の関係を結んでしまった。ずるずるべったりに伯母の望む如く、鼈四郎は、東京居住の人間となり逸子を妻と呼ぶことにしてしまった。そして檜垣の主人が死ぬ前に譫言《うわごと》にいった「伯母をおまえにやる。おまえの伯母にしろ」といった言葉が筋書通りになった不思議さを、ときどき想《おも》い見るのであった。
京都に一人残っている生みの母親、青年近くまで養ってくれた拓本の老職人のことも心にかからないことはないけれども、鼈四郎の現在のような境遇には、彼等との関係はもとからの因縁が深いだけに、それを考えに上すことは苦しかった。この撥ぜ開けた巨都の中で一旗揚げる慾望に燃え盛って来た鼈四郎に取り、親友でこそあれ、他人の伯母さんを伯母さんと呼ぶぐらいの親身さが抜き差しができて責任が軽かった。責
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