ル罎《びん》を置くと次の茶の間に引下りそこで中断された母子の夕飯を食べ続けた。
 この間台所で賑《にぎ》やかな物音を立て何か支度をしていた鼈四郎《べつしろう》は、襖《ふすま》を開けて陶器鍋《とうきなべ》のかかった焜炉《こんろ》を持ち出した。白いものの山型に盛られている壺《つぼ》と、茶色の塊が入っている鉢と白いものの横っている皿と香のものと配置よろしき塗膳《ぬりぜん》を持出した。醤油注《しょうゆつ》ぎ、手塩皿、ちりれんげ、なぞの載っている盆を持出した。四度目にビールの栓抜《せんぬ》きとコップを、ちょうど士《さむらい》が座敷に入るとき片手で提げるような形式張った肘《ひじ》の張り方で持出すと、洋服の腰に巻いていた妙な覆い布を剥ぎ去って台所へ抛《ほう》り込んだ。襖を閉め切ると、座敷を歩み過し椽側《えんがわ》のところまで来て硝子障子《ガラスしょうじ》を明け放した。闇《やみ》の庭は電燭の光りに、小さな築山や池のおも影を薄肉彫刻のように浮出させ、その表を僅《わずか》な霰《あられ》が縦に掠《かす》めて落ちている。幸に風が無いので、寒いだけ室内の焜炉の火も、火鉢の火も穏かだった。
 彼は座布団の上に胡座《あぐら》を掻《か》くと、ビール罎に手をかけ、にこにこしながら壁越しに向っていった。
「おい、頼むから今夜は子供を泣かしなさんな」
 彼は、ビールの最初のコップに口をつけこくこくこくと飲み干した。掌で唇の泡を拭《ぬぐ》い払うと、さも甘そうにうえーと※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]気《おくび》を吐いた。その誇張した味い方は落語家の所作を真似《まね》をして遊んでいるようにも妻の逸子には壁越しに取れた。
 彼は次に、焜炉にかけた陶器鍋の蓋《ふた》に手をかけ、やあっと掛声してその蓋を高く擡《もた》げた。大根の茹《ゆだ》った匂《にお》いが、汁の煮出しの匂いと共に湯気を上げた。
「細工はりゅうりゅう、手並をごろうじろ」
 と彼は抑揚をつけていったが、蓋の熱さに堪えなかったものと見え、ち、ちちちといって、蓋を急ぎ下に置いた様子も、逸子には壁越しに察せられた。
 じかに置いたらしい蓋の雫《しずく》で、畳が損ぜられやしないか? ひやりとした懸念を押しのけて、逸子におかしさがこみ上げた。彼女はくすりと笑った。世間からは傲慢《ごうまん》一方の人間に、また自分たち家族に対しては暴君《タイラント》の良人が、食物に係っているときだけ、温順《おとな》しく無邪気で子供のようでもある。何となくいじらしい気持が湧《わ》くのを泣かさぬよう添寝をして寝かしつけている子供の上に被《かず》けた。彼女は子供のちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]と着ものの間に手をさし入れて子供を引寄せた。寝つきかかっている子供の身体は性なく軟かに、ほっこり温かだった。
 本座敷で鼈四郎は、大根料理を肴《さかな》にビールを飲み進んで行った。材料は、厨《くりや》で僅に見出した、しかも平凡な練馬大根一本に過ぎないのだが、彼はこれを一汁三菜の膳組《ぜんぐみ》に従って調理し、品附した。すなわち鱠《なます》には大根を卸しにし、煮物には大根を輪切にしたものを鰹節《かつおぶし》で煮てこれに宛《あ》てた。焼物皿には大根を小魚の形に刻んで載せてあった。鍋は汁の代りになる。
 かくて一汁三菜の献立は彼に於て完《まっと》うしたつもりである。
 彼には何か意固地《いこじ》なものがあった。富贍《ふせん》な食品にぶつかったときはひと種《いろ》で満足するが、貧寒な品にぶつかったときは形式美を欲した。彼は明治初期に文明開化の評論家であり、後に九代目団十郎のための劇作家となった桜痴居士《おうちこじ》福地源一郎の生活態度を聞知っていた。この旗本出で江戸っ子の作者は、極貧の中に在って客に食事を供するときには家の粗末な惣菜《そうざい》のものにしろ、これを必ず一汁三菜の膳組の様式に盛り整えた。従って焼物には塩鮭《しおじゃけ》の切身なぞもしばしば使われたという。
 彼は料理に関係する実話や逸話を、諸方の料理人に、例の高飛車な教え方をする間に、聞出して、いくつとなく耳学問に貯える。何かという場合にはその知識に加担を頼んで工夫し出した。彼は独創よりもどっちかというと記憶のよい人間だった。
 彼は形式通り膳組されている膳を眺めながら、ビールの合の手に鍋の大根のちり[#「ちり」に傍点]を喰《た》べ進んで行った。この料理に就《つい》ても、彼には基礎の知識があった。これは西園寺陶庵公が好まれる食品だということであった。彼は人伝《ひとづ》てにこの事を聞いたとき、政治家の傍、あれだけの趣味人である老公が、舌に於て最後に到り付く食味はそんな簡単なものであるのか。それは思いがけない気もしたが、しかし肯《うなず》かせるところのある思いがけなさでもあった。そし
前へ 次へ
全22ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング