板である膃肭獣の乾物に似ているので、人間も変れば変るものだと思うだけとなった。病友は口から入れるものは絶ち、苦痛も無くなってしまったらしい。医者は臨終は近いと告げた。看護婦もモデルの娘も涙の眼をしょぼしょぼさせながら帰り支度の始末を始め出した。病友は朦々《もうもう》として眠っているのか覚めているのか判らない場合が多い。けれども咽頭奥《のどおく》で呟《つぶや》くような声がしているので鼈四郎《べつしろう》が耳を近付けてみると、唄《うた》を唄っているのだった。病友がこういう唄を唄ったことを一度も鼈四郎は聞いたことはなかった。覚束《おぼつか》ない節を強いて聞分けてみると、それは子守唄だった。「ねんころりよ、ねんころりねんころり」
 鼈四郎の顔が自分に近付いたのを知って病友は努めて笑った。そして喘《あえ》ぎ喘ぎいう文句の意味を理解に綴《つづ》ってみるとこういうのだった。「どこを見渡してもさっぱりしてしまって、まるで、何にもない。いくら探しても遺身《かたみ》の品におまえにやるものが見付からないので困った。そうそう伯母さんが東京に一人いる。これは無くならないでまだある。遠方にうすくぼんやり見える。これをおまえにやる。こりゃいいもんだ。やるからおまえの伯母さんにしなさい。」
 病友は死んだ。店の旧取引先か遊び仲間の知友以外に京都には身寄りらしいものは一人も無かった。東京の伯母なるものに問合すと、年老いてることでもあり葬儀万端|然《しか》るべくという返事なので鼈四郎は、主に立って取仕切り野辺の煙りにしたことであった。


 その遺骨を携えて鼈四郎は東京に出て来た。東京生れの檜垣の主人はもはや無縁同様にはなっているようなものの菩提寺《ぼだいじ》と墓地は赤坂青山辺に在った。戸主のことではあり、ともかく、骨は菩提寺の墓に埋めて欲しいという伯母の希望から運んで来たのであったが、鼈四郎は東京のその伯母の下町の家に落付き、埋葬も終えて、序《ついで》にこの巨都も見物して京都に帰ろうとする一ヶ月あまりの間に、鼈四郎はもう伯母の擒《とりこ》となっていた。
 この伯母は、女学校の割烹教師《かっぽうきょうし》上りで、草創時代の女学校とてその他家政に属する課目は何くれとなく教えていた。時代後れとなって学校を退かされてもこれが却《かえ》って身過ぎの便りとなり、下町の娘たちを引受けて嫁入り前の躾《しつけ》をする
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