ある。「誰か友だちを呼んで見せて、人面疽《じんめんそ》が出来たと巫山戯《ふざけ》てやろう」鼈四郎が辞んでも彼は訊入《ききい》れなかった。鼈四郎は渋々筆を執った。繃帯《ほうたい》を除くとレントゲンの光線|焦《や》けと塗り薬とで鰐皮色《わにがわいろ》になっている堆《うずたか》いものの中には執拗《しつよう》な反人間の意志の固りが秘められているように思われる。内側からしんの繁凝《しこり》が円味を支え保ち、そしてその上に程よい張度の肉と皮膚が覆っている腫物《はれもの》は、鋭いメスをぐさと刺し立てたい衝動と、その意地張った凝り固りには、ひょぐって揶揄《やゆ》してやるより外に術はないという感じを与えられる。腫物の皮膚に油絵の具のつきはよかった。彼は絵の具を介して筆尖《ひっせん》でこの怪物の面を押し擦るタッチのうちに病友がいかにこの腫物を憎んだか。そして憎み剰った末が、悪戯《いたずら》ごころに気持をはぐらかさねばならないわけが判るような気がした。「思い切り、人間の、苦痛というものをばかにした顔に描いてやれ、腫物とは見えない人の顔に」彼は、人の顔らしく地塗りをし、隈取《くまど》りをし鼻、口、眼と描き入れかけた。病友はここまで歯を食い縛って我慢していたが、「た た た た た た」といって身体をすさらせた。彼はいった。「さすがに堪《たま》らん、もう、ええ、あとはたれか痛みの無くなった死骸《しがい》になってから描き足して呉《く》れ」それゆえ、腫物の上に描いた人の顔は瞳《ひとみ》は一方しか入れられずに、しかも、ずっている。鼈四郎は病友がいった通り、彼が死んでからも顔を描き上げようとはしなかった。隻眼を眇《すがめ》にして睨《にら》みながら哄笑《こうしょう》している模造人面疽《もぞうじんめんそ》の顔は、ずった偶然によって却《かえ》って意味を深めたように思えた。人生の不如意を、諸行無常を眺めやる人間の顔として、なんで、この上、一点の描き足しを附け加える必要があろう。
鼈四郎は病友の屍体《したい》の肩尖《かたさき》に大きく覗いている未完成の顔をつくづく見瞠《みい》り「よし」と独りいって、屍体を棺に納め、共に焼いてしまったことであった。
病友に痛みの去る暇なく、注射は続いた。流動物しか摂《と》れなくなって、彼はベッドに横わり胸を喘ぐだけとなった。鼈四郎は、それが夜店の膃肭獣《おっとせい》売りの看
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