段程度にこなす腕を自然に習い覚えた。彼は調法な与四郎となった。どこの師匠の家でも彼を歓迎した。棋院では初心の客の相手役になってやるし、琴の家では琴師を頼まないでも彼によって絃《げん》の緩みは締められた。生花の家でお嬢さんたちのための花の下慥え、茶の湯の家ではまたお嬢さんや夫人たちのための点茶や懐石のよき相談相手だった。拓本職人は石刷りを法帖《ほうじょう》に仕立てる表具師のようなこともやれば、石刷りを版木に模刻して印刷をする彫版師のような仕事もした。そこから自ずから彼は表具もやれば刀を採って、木彫|篆刻《てんこく》の業もした。字は宋拓を見よう見真似《みまね》に書いた。画は彼が最得意とするところで、ひょっとしたら、これ一途《いちず》に身を立てて行こうかとさえ思うときがあった。
頼めば何でも間に合わして呉《く》れる。こんな調法人をどこで歓迎しないところがあろうか。
彼は紛れるともなく、その日その日の憂さを忘れて渡り歩るいた。母は鼈四郎が勉強のため世間に知識を漁《あさ》っていて今に何か掴《つか》んで来るものと思い込んでるので呑込《のみこ》み顔で放って置いたし、拓本職人の老爺《ろうや》は仕事の手が欠けたのをこぼしこぼし、しかし叱言《こごと》というほどの叱言はいわなかった。
師匠連や有力な弟子たちは彼を取巻のようにして瓢亭・俵やをはじめ市中の名料理へ飲食に連れて行った。彼は美食に事欠かぬのみならず、天稟《てんぴん》から、料理の秘奥を感取った。
そうしているうち、ふと鼈四郎に気が付いて来たことがあった。このように諸方で歓迎されながら彼は未だ嘗《かつ》て尊敬というものをされたことがない。大寺に生れ、幼時だけにしろ、総領息子という格に立てられた経験のある、旧舗《しにせ》の娘として母の持てる気位を伝えているらしい彼の持前は頭の高い男なのであった。それがただ調法の与四郎で扱い済されるだけでは口惜しいものがあった。彼の心の底に伏っていつも焦々する怒ろしい想いもどうやら一半はそこから起るらしく思われて来た。どうかして先生と呼ばれてみたい。
人中に揉《も》まれて臆《おく》し心《ごころ》はほとんど除かれている彼に、この衷心から頭を擡《もた》げて来た新しい慾望は、更に積極へと彼に拍車をかけた。彼は高飛車に人をこなし付ける手を覚え、軽蔑《けいべつ》して鼻であしろう手を覚えた。何事にも批判を
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