びで、それを眼のあたりに見なければならない運命を思うと鼈四郎《べつしろう》は、うんざりするより憤怒《ふんぬ》の情が胸にこみ上げて来た。ふと蛍雪館の妹娘のお絹の姿が俤《おもかげ》に浮ぶ。いつも軽蔑《けいべつ》した顔をして冷淡につけつけものをいい、それでいて自分に肌目《きめ》のこまかい、しなやかで寂しくも調子の高い、文字では書けない若い詩を夢見させて呉《く》れる不思議な存在なのだ。
「なんだって、自分はあんなに好きなお絹と一しょになり、好きな生活のできる富裕な邸宅に住めないのだろう。人間に好くという慾を植えつけて置きながら、その慾の欲しがるものを真《ま》っ直《すぐ》には与えない。誰だか知らないが、世界を慥えた奴はいやな奴だ」
その憤懣《ふんまん》を抱いて敷居を跨《また》ぐのだったから、家へ上って行くときの声は抉《えぐ》るような意地悪さを帯びていた。
「おい。ビール、取っといたか。忘れやしまいな」
こどもに向き合い、五|燭《しょく》の電灯の下で、こどもに一箸《ひとはし》、自分が二箸というふうにして夕飯をしたためていた妻の逸子は、自分の口の中のものを見悟られまいとするように周章《あわて》て嚥《の》み下した。口を袖《そで》で押えて駆け出して来た。
「お帰りなさいまし。篤がお腹が減ったってあんまり泣くものですから、ご飯を食べさせていましたので、つい気がつきませんでして、済みません」
いいつつ奥歯と頬《ほお》の間に挟った嚥み残しのものを、口の奥で仕末している。
「ビールを取っといたかと訊《き》くんだ」
「はいはい」
逸子は、握り箸の篤を、そのまま斜に背中へ抛《ほう》り上げて負《おぶ》うと、霰の溝板を下駄で踏み鳴らして東仲通りの酒屋までビールを誂《あつら》えに行った。
もう一突きで、カッ[#「カッ」に傍点]となるか涙をぽろっと滴すかの悲惨な界の気持にまで追い込められた硬直の表情で、鼈四郎はチャブ台の前に胡坐《あぐら》をかいた。チャブ台の上は少しばかりの皿小鉢が散らされ抛り置かれた飯茶碗《めしぢゃわん》から飯は傾いてこぼれている。五燭の灯の下にぼんやり照し出される憐《あわ》れな狼藉《ろうぜき》の有様は、何か動物が生命を繋《つな》ぐことのために僅《わず》かなものを必死と食い貪《むさぼ》る途中を闖入者《ちんにゅうしゃ》のために追い退けられた跡とも見える。
「浅間しい」
鼈四郎
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