ほとり》まで来て、夕方にまた迎へに来た。年頃の若者になつても、鼻唄《はなうた》一つうたふでもなく、嫌味な教会通ひの若者となりもしない、何処《どこ》から得たか西行《さいぎょう》の山家集《さんかしゅう》と、三木|露風《ろふう》の詩集を持つて居た。そして八犬伝やアンデルセンの『月物語』をかの女の兄から借りて読んで居るのだつた。夜など近所の若者の仲間入りをして遊んで居たことはなかつた。野山の仕事に忙しい時期には、多くの作男と一緒になつて働きに出かけた。直助はそれでも土くさい色黒男にはならなかつた。と言つて腺病《せんびょう》質のなま蒼《あお》い体質では勿論ないのだ。何と言はうか、漆黒《しっこく》の髪が少し濃過ぎる位の体質の眼の覚めるやうな色白な男女がある。あの健康な見ざめのしない色白なのだ。でも野山で手足も男らしく使ひならしてあるので、何処《どこ》か新鮮な野山の匂ひも染《し》んでゐた。
「私ね、この頃|希臘《ギリシャ》の神話を読んでゐるのよ。その本の中に河神についてこんな事が書いてあるのよ。(かの女は頁《ページ》を繰《く》つて)古人の信ずるところに依《よ》れば河神は、変装の能力を備へて居《お》り、河底あるひは水源に近き洞窟《どうくつ》の裡《うち》に住み、その河の広狭長短に随《したが》ひ、或《あるい》は童児、青年、老夫に変相、その渓《たに》を出《い》でて蜿蜿《えんえん》と平原を流るゝ時は竜蛇《りゅうだ》の如き相貌《そうぼう》となり、急湍《きゅうたん》激流に怒号する時は牡牛《おうし》の如き形相を呈し……まだいろ/\な例へや面白い比喩《ひゆ》が書いてあるけれど……」
 直助はだしぬけに口を切つた。
「子供のうち、私の考へてゐたことゝよく似てをりますな。」
「どう考へてゐたの。」
「私は河が生きてゐるやうに思つてをりました。河上はずつとこの辺の河より幅が狭いのですけれど、水面が引締つてゐて、活気があるやうです。私の母は気が優しくてぢき心を傷《いた》めますので、私は友達と喧嘩《けんか》して口惜《くや》しかつたり、何か欲しいものがあつても買へなかつたり、そのほか悲しい時や辛《つら》い時には、自分の部屋の障子《しょうじ》の破れたところから水を見ては気持ちを訴へてをりました。河は水であつても、河の心は神様か人であつて、何でも人間の心が判つて呉《く》れるやうに思ひました。
 母は私のその様子を
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