話を深入りさしてもいいのかい」
 わたくしは、多少後悔に噛《か》まれながら「すみません」と言った。しかし、こう弁解はした。
「あたし、何だか、この頃、精神も肉体も変りかけているようで、する事、なす事、
取り止めありませんの。しかし考えてみますのに、もしあたしたちに一人でも娘があったら、こんなにも他所《よそ》の娘のことで心を痺《しび》らされるようなこともないと思いますが――」
 逸作は「ふーむ」と、太い息をしたのち、感慨深く言った。「なる程、娘をな。」


 以前に、こういう段階があるものだから、今もわたくしは、雛妓が氷水でも飲み終えたら、何か身の上ばなしか相談でも切り出すのかと、心待ちに待っていた。しかし雛妓にはそんな様子もなくて、頻りに家の中を見廻《みまわ》して、くくみ笑いをしながら、
「洒落《しゃれ》[#「洒落《しゃれ》」は底本では「洒落《しゃれ》れ」と誤植]てるけど、案外小っちゃなお家ね」
 と言って、天井の板の柾目《まさめ》を仰いだり、裏小路に向く欄干《らんかん》に手をかけて、直ぐ向い側の小学校の夏季休暇で生徒のいない窓を眺めたりした。
 わたくしの家はまだこの時分は雌伏時代に属していた。嘗て魔界の一ときを経歴したあと、芝の白金でも、今里でも、隠逸の形を取った崖下《がけした》であるとか一樹の蔭であるとかいう位置の家を選んだ。洞窟を出た人が急に陽の目に当るときは眼を害する惧《おそ》れから、手で額上を覆っているという心理に似たものがあった。今ここの青山南町の家は、もはや、心理の上にその余翳《よえい》は除《の》けたようなものの、まだ住いを華やがす気持にはならなかった。
 それと逸作は、この数年来、わたくしを後援し出した伯母と称する遠縁の婦人と共々、諸事を詰めて、わたくしの為めに外遊費を準備して呉れつつあった。この外遊ということに就ては、わたくしが嘗て魔界の一ときの中に於て、食も絶え、親しむ人も絶え、望みも絶えながら、匍《は》い出し盛りの息子一郎を遊ばし兼ねて、神気朦朧《しんきもうろう》とした中に、謡うように言った。
「今に巴里《パリ》へ行って、マロニエの花を見ましょうねえ。シャンゼリゼーで馬車に乗りましょうねえ」
 それは自分でさえ何の意味か判らないほど切ないまぎれの譫言《うわごと》のようなものであった。頑是《がんぜ》ない息子は、それでも「あい、――あい」と聴いて
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