「かの子さーん」
こう呼び交うところまでに至ったとき、かの女の白い姿が月光の下に突き飛ばされ、女中の箱屋に罵《ののし》られているのが聞えた。
「なにを、ぼやぼやしてるのよ、この子は。それ裾《すそ》が引ずって、だらしがないじゃありませんか」
はっきり判らぬが、多分そんなことを言って罵ったらしく、雛妓は声はなくして、裾を高々と捲《まく》り上げ、腰から下は醜い姿となり、なおも、女中の箱屋に背中をせつかれせつかれして行く姿がやがて丈高い蓮《はす》の葉の葉群れの蔭で見えなくなった。
その事が気になってわたくしは一週間ほど経《た》つと堪え切れず、また逸作にねだって蓮中庵へ連れて行って貰った。
「少しお雛妓マニヤにかかったね」
苦笑しながら逸作はそう言ったが、わたくしが近頃、歌も詠めずに鬱《うつ》しているのを知ってるものだから、庇《かば》ってついて来て呉《く》れた。
風もなく蒸暑い夜だった。わたくしたち二人と雛妓はオレンジエードをジョッキーで取り寄せたものを飲みながら頻《しき》りに扇風器に当った。逸作がまた、おまえのうちのお茶ひき連を聘《よ》んでやろうかというと、雛妓は今夜は暑くって踊るの嫌だからたくさんと言った。
わたくしが臆《おく》しながら、先夜の女中の箱屋がかの女に惨《むご》たらしくした顛末《てんまつ》に就《つい》て遠廻《とおまわ》しに訊《たず》ねかけると、雛妓は察して「あんなこと、しょっちゅうよ。その代り、こっちだって、ときどき絞ってやるから、負けちゃいないわ」
と言下にわたくしの懸念を解いた。
わたくしが安心もし、張合抜けもしたような様子を見て取り、雛妓は、ここが言出すによき機会か、ただしは未だしきかと、大きい袂《たもと》の袖口《そでぐち》を荒掴《あらづか》みにして尋常科《じんじょうか》の女生徒の運針の稽古《けいこ》のようなことをしながら考え廻《めぐ》らしていたらしいが、次にこれだけ言った。
「あんなことなんにも辛《つら》いことないけど――」
あとは謎《なぞ》にして俯向《うつむ》き、鼻を二つ三つ啜《すす》った。逸作はひょんな顔をした。
わたくしは、わたくしの気の弱い弱味に付け込まれて、何か小娘に罠《わな》を構えられたような嫌気もしたが、行きがかりの情勢で次を訊《き》かないではいられなかった。
「他に何か辛いことあるの。言ってごらんなさいな。あたし聴
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