―S家のお嬢さまがいらしつたといふのはいつでしたの。
――まあお待ちなさいよ。それはおとうさんのあでやかな娘姿がお店へ出てから半年もたつた頃、ある日そのお方がおしのびで侍女二三人程連れて街へ買物がてら散歩にお出になつたのですよ。その時、ふとお店におはひりになつたのが始まりで……さあお嬢さまは何がお気にいりで店へさうさいさい[#「さいさい」に傍点]お出《い》でになるやうになつたのでせう。それは小さい非常に感じの好い、まるで月のかくれ家のやうなお店がお気にいりになり大変匂ひの好い炊きものの香もおこのみに合つたのかも知れませんが結局はその店に居るしとやかな娘姿のおとうさんがお好きだつたからだとあとで仰《おっしゃ》つたさうな。
――お嬢様はおとうさんが男で娘になつて居ることをもちろん知らなかつたんでせうな。
[#ここで字下げ終わり]
 と兄がませた口調で聞きました。
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――ええ、もちろんですとも、そんなこと少しも御存じなくておとうさんをお好きになつたのだから、それは純粋なごひいき様におなりになつたわけなのだよ。
――そのお嬢様はお美しかつたの、おかあさん。
[#ここで字下げ終わり]
 おかあさんは少し困つたやうに娘の問ひに答へました。
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――お美しかつたとも、ねえおとうさん。お美しいお嬢様でしたともねえ。
――ああ、美しいお嬢様でした。
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 おとうさんの頬《ほお》は何故《なぜ》か少し赫《あか》らみました。
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――まあ、それはともかく、おとうさんはたうとうお嬢様に好かれ切つておしまひになり、S家へ来て欲しいとお嬢様から懇望されなさつた。始めはお嬢様のお相手などして折角の建築学の研究を止《や》めなければならないのは厭《いや》だとお思ひになつた相《そう》だけれど、よくお考へなさるとそのS家といふのは都でも名だたる富豪で、本邸は云ふに及ばず広い屋敷内に実に珍らしい建築の亭《ちん》や別荘をお持ちになつていらつしやることに気付き、とてもただではさういふ建築の内部など拝見出来ない、当分お嬢様のお相手がてらさういふ処の見学をなさるおつもりで承知なさつた。ただし、親一人子一人の淋《さび》しい母親を置いて行くのだからお風呂の日だけは実家へ戻して母親と会はせて呉《く》れろといふ条件も直ぐ近所のお邸《やしき》なので聞きとゞけられたのさ。やはり自然と他所《よそ》で風呂になど男の女がは入《い》り度《た》くない気もちがおとうさんに働いたんですね。それから半年、一年と月日が流れおとうさんが十八の春にもなつた頃、おとうさんのお気持ちはとてもとても、苦しいものになつて居ました……。
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 お母さんは云ひ淀《よど》みました。むすことむすめも少し堅くなつておとうさんとおかあさんを見較べました。
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――つまりね。まあ少し云ひ憎《にく》いが、おとうさんがそのお嬢様を大変お慕ひ申すやうにおなりになつてしまつた。お嬢様はお美しい上に、傍に居れば居る程、お利口で優しくなつかしい御性質なのでそれは無理もないことでしたらうよ――しかし、たとへおとうさんが男そのままでお慕ひ申した処が御身分も違ひまして女であり切つてゐるおとうさんが、そんなところをお嬢様にお知らせ申せるわけのものではなし、とかうして苦しんでおいでの処へ、またも一つおとうさんに苦しい事情が出て来ました。ほかでもないそのS家のお嬢様にお兄様がおいでになつた。お歳は二十位。そのお方がいつか娘姿のおとうさんをすつかり女と思つてお慕ひになるやうにおなりなさつた。しかもそのお兄様はS家の大切な一番御子息、そして御病気になる程思ひ慕つてお仕舞《しま》ひなされたのだから困ると云つても一通りの困り方では無く、或《ある》日、お嬢様を通してそのおこころもちをおとうさんにお打ち明けなさつた。おとうさんは御自分の悲しい恋に引くらべ、到底悲恋であるべきお兄様のお心を思ひくらべ乍《なが》ら何にも御存じなくそれを仰《おっしゃ》るお嬢様の御顔をぢつと見詰めて涙を流されたと云ふことですよ。
――で、結局どうなりました。
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 もうさうした人情を正当に解し得る年齢のむすことむすめでありました。正面切つて真面目《まじめ》に追及したのも無理はありません。
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――結局おとうさんはS家からお退《ひ》きになつた……お嬢様といふ悲恋の対象から御自分を退かせる為と御子息の悲恋の対象である自分をお邸《やしき》から消す為にね……。
――そしておとうさんは直ぐお家へ帰られましたの。
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 むすめの聞きさうな事です。
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――いいえ。このわたし==おかあさんの処へ来られたの。
――今度は、わしが話さう。
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 とおとうさんが二十年来むすことむすめが聞きなれたおとうさんの声で云ひました。ですが、今まで長いおかあさんのおはなしの内で娘姿にばかり想像して居たおとうさんが突然、男の声を出したので、ほんの一瞬間ではありましたが、むすめも、むすこも何か、あでやかな変怪の姿のなかから忽然《こつぜん》、おとうさんが男姿で抜け出したやうな不思議な感じがいたしました。
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――お前たち、その頃、おかあさんが、どんな男でゐたか想像がつくか。
――いいや、とても、それは難かしい。
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 むすこは全く、このはなしの中心に身を入れ切つて其処《そこ》から途方もなく開展して行き相《そう》な事件に対する好奇心の眼を瞠《みは》つて居るのでした。
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――おかあさんは美青年だつたぞ。だが、まだ恋愛事件になぞ身を縛られてゐなかつた。と云つても、やつぱり外《ほか》の事情で身を縛られてゐたから、厄介な境遇だつたことに変りは無かつた。おかあさんは気性が女の内気であり乍《なが》ら乗馬や、ほかの武芸に実に優れて居た[#「優れて居た」は底本では「優れた居た」]。お前達の知る通り田舎《いなか》でもおかあさんの耕作達者には村の人達も息を引いて居るのと思ひ合せて御覧、美しい優しい顔して居るおかあさんの今でもこんなに立派な体格をご覧。
――ほほほほ……。
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 おかあさんの張《はり》のある綺麗《きれい》な笑ひ声……むすこも、むすめも、勇ましいおかあさんの男姿に引き入《いれ》られようとした想像からまた引戻されました。
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――笑つたりしてはいけないおかあさん……かういふ話は一歩それると飛《とん》でも無い不面目なものになる。
――はい。
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 おかあさんも真面目《まじめ》な聴きてになりました。
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――おかあさんの母親はおとうさんの母親よりやま[#「やま」に傍点]気があつてしつかり者だつただけに仕事も小さい乍《なが》ら機業工場なんか始めた。大分具合ひは宜《よ》かつたがもともと資本はひと[#「ひと」に傍点]から借りた。貸した人があとでおかあさんを義理で縛つた爺《じい》さんよ。と云つても爺さんは決して悪人では無い。ただ昔武人だつた丈《だけ》に冒険|癖《へき》があつたが本性はむしろ善良だつた位だ。それで却《かえ》つてこちらから義理を迎へて縛られてしまつたやうなわけだ。義理も強《し》ひられたのはまだそこから逃げ宜《よ》いよ。なんと云つたつて迎へた義理は自分で造つた罠《わな》へ自分で罹《かか》つたも同じだよ。つまり罠の仕組みを知れば知る程、知らない仕組みにかゝつたやうに無茶に逃げ出す力が出ないからな。ところでその爺《じい》さんがおかあさんの武者振《むしゃぶ》りには他には類の無い裏にデリケートな処がある。つまり一遍の武辺《ぶへん》では無いと見て取つたとでも云はうかな。はははは……(しまつた今度はわしが笑つた)でも本性が女だからな、云はばまあ、その方が当り前の事だ。デリケートな裏の方が本当で、表の武威がむしろ借り物なのだ。しかし、わしがあでやかな娘姿であつたと同じやうにおかあさんにしても、どうせ女として生れ乍《なが》ら男で世間を押さねばならぬ様な運命に生れた者には、やはりそれ相当の保護色が備はつて裏も表も調和よく発達したものなんだな。爺さんが其処《そこ》を目付けどころにしたんだ。爺さんが毎年その都に行はれる荒馬《あらうま》馴《な》らしの競技場へおかあさんの美丈夫《びじょうふ》を出し度《た》くなつたんだ。今一二年馬術を猛烈に勉強すれば、屹度《きっと》優賞者になれる見込みのある好乗馬青年だ。就《つい》ては、是非《ぜひ》自分の愛婿《まなむこ》として出て貰《もら》ひ度《た》いといふ希望だ。この種の人に有り勝ちな極《ごく》、無邪気な虚栄家なのだ。尤《もっと》も愛婿とするにしても、何も自分の家へ引き入れて只《ただ》一人の母親を放擲《ほうてき》して来させようなんて業慾なことは云はない。爺さんに小さな可愛《かわ》ゆい娘があつた。その娘をゆくゆく貰ふ約束を極《き》めて外戚の婿に定まつて呉《く》れといふのだつた。
――さうありさうな尤な話ですね。
――さうか、お前たちもさう思ふか。さうだとも其処《そこ》にその話を断る何の理由も存在しない以上、それをよろこんで承諾するよりおかあさん親子のとる道はなかつたらうぢやないか。しかも、それはどこまでも表面のおかあさんに適当な条件であつて裏面の女性を何《どう》しやうも無い。いくら武術を好み乗馬に巧みだからと云つて、国全体を震憾《しんかん》させるやうな荒競技に……それにまた達するやうな猛練習など第一生理的耐持力もありやう筈《はず》は無い。おかあさん親子ははた[#「はた」に傍点]と返答に行き詰まつたが、爺さんの頼みがごういん[#「ごういん」に傍点]でなくまた恩を笠《かさ》の命令的でもなくまるで年寄りが余生の願望の只一つのやうな哀願的な態度で頼み入るので先刻云つたやうにそれ、義理を迎へ入れるやうにして却《かえ》つてこちらからはまつて行つてしまつた。絶体絶命の承諾といふ境地には入《い》つた形になつて居たんだな。
――そこへS家から逃げ出したおとうさんが行き合せたんですね。
――さうだ。聴き手のお前達が、この物語の構成者になつちまつたな。有難いよ、さう熱心に聴いて呉《く》れれば、はは……(しまつたまた、笑つちまつた。)それでと、今まで別に自分達の運命を不思議にも思つて居なかつた二人が、始めて因果同志のかこち[#「かこち」に傍点]合ひをしたのだな。一たん嘆き始めると、何もかもあべこべな二人の運命に気がついて、果てしもなしに悲しくなつた。と云つて、今さら、二人が二人の母親に抗議を申込む気にもなれず、さうだ、わし達は逆な運命を痛感すると同時に、母親と面と向へば、どうも、さういふ運命のつくり主である母親を責めさうで、却《かえ》つて足が母親の方に向かなかつた。気が弱いと云はうか、それよりも、まあ、優しい気だてだつたと云つて置かう、わしがS家から逃げておかあさんの処へ向つたのも、自然、親を責めさうな機運を意識して、却つてそこから廻逃したのだな。そして親より以外に本当の自分の運命を知るものは自分と同じに性を取違へてゐるおかあさんより外《ほか》にない、どうも、其《そ》のおかあさんの処へ行つて見るよりほかに思案も無かつたのだ。
[#ここで字下げ終わり]


 これから先は作者がまた話すことにしませう。おとうさんも大分語り疲れたやうですから。おとうさんとおかあさんはとど都から姿をかくすことに相談を極《き》めました。二人とも母親を残して行くことは実に悲しいことでありましたが、止《や》むを得ない当面の仕儀、そしてこのまま、不自然な二人が都に苦しみ乍《なが》らうろ
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