1−88−24]尼が死んで、全く孤独のやもめの老人となつた秋成は、一時、弟子の羽倉信美《はぐらのぶよし》の家へ寄食してみたが窮屈で堪へられず、またよろぼひ出て不自由な独居生活に返つた。
 故郷なつかしく大阪に遊んだり静かな日下の正法寺へ籠《こも》つて眼を休ませてみたりしたが老境の慰めるすべもなかつた。年も丁度七十歳に達したので、前年|棲《す》んで知り合ひの西福寺の和尚《おしょう》に頼んで生き葬《とむ》らひを出して貰《もら》ひ、墓も用意してしまつた。
 秋成はそのときのことを顧みて苦笑した。さすがの癇癖《かんぺき》おやぢも我《が》を折つたかと意外に人が集つて来た。恥をかかせてやつたので怒つて居るといふ噂《うわさ》の若い儒者まで機嫌よく挨拶《あいさつ》に来た。役に立たないやうなものをたくさん人が呉《く》れた。それ等《ら》の人々は自分をいたはつたり、力をつけたりする言葉を述べた。そして自分がしほらしく好意を悦《よろこ》び容れる様子を示すのを期待した。自分はしまつたと思つた。
 自分で自分を葬《ほうむ》る気持は、生涯何度も繰返したので、一向めづらしいことではない。今度こそ、すこし、それを大がかりに形式に現して気持を新《あらた》にするつもりでゐたものを、これではまるで、他人に自分を葬らせる機会を作つてやつたやうなもので、今更、取返しのつかぬ失敗のやうに思はれた。で、ふしよう、ぶしよう==有難う、まあ、これからこどもに返つた気で……といふと、その言葉に飛びついて==それが宜《よ》い、全くこれからは、何もかも忘れてこどもに生れ返りなさることですぞ。と自分と同年でありながら、髪が黒く、歯が落ちず、杖《つえ》いらず、眼自慢の老人が命令的に云つた。日頃病身の癖に、壮健な彼と同じやうに長命する秋成を腹でいまいましがつてゐる老人だつた。彼は彼に向つて日頃いたづらなる健康を罵《ののし》る秋成に、折もあらば一撃を与へようと機会を覗《うかが》つてゐたのだつた。彼の言葉は==この上、長生きをするなら、もちつと、おとなしくしろ。といふのも同じだつた。まはりで聞いて居た人々は手を拍《う》つて、さうだ、そのことそのこと、といつた。
 それから、知友の連中は牒《しめ》し合したやうに、自分をこども扱ひにし、真面目《まじめ》に相手にならなかつた。彼はその方が都合がよかつた。相手はこどもに返つた老人だといふ考への下に、愉快に自分の罵言《ばげん》も聴き、寛容も秋成に示せた。もう誰も、秋成に向つて真理に刺されて飛上る苦痛の表情も反抗する激怒の態度も見せて呉《く》れるものは無くなつた。垂れ幕のやうな、にやにやした笑ひだけが、自分の周囲を取巻いた。秋成は、的が無くなつて、空《むな》しい矢を射る自分の疲労に堪へられなくなつた。
 彼等はその上、自分に深切さへ見せ出して自分の文集を編み出した。誰にも、手をつけさせなかつた草稿を入れて置く机のわきの藤簍《つづら》かごを掻廻《かきまわ》したり、人のところから勝手に詠草《えいそう》を取り寄せたりして版に彫つた。家鴨《あひる》は醜くとも卵だけは食へると思つたのかも知れない。自分が何か註文をいひ出すと==こどもに返つたのを忘れては困る。遊んで遊んで。と肘《ひじ》ではねた。これらの草稿は、やつぱり、自分のかねての決心どほり、自分の柩《ひつぎ》と一しよに寺に納めて後世を待つべきものではなかつたかしらん。人に※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎとられて育つたやうな冊子でも出来て見れば、可愛《かわ》ゆくないことはない。それだけにまた、人に勝手にされたいまいましい気持も、添ふが。
 夜も更け沈んだらしい。だみ声で耳の根に叩《たた》きつけるやうな南禅寺の鐘、すこし離れて追ひ迫る智恩院の鐘、遠くに並んできれいに澄む清水《きよみず》、長楽寺の鐘。寒さはいつの間にかすこしゆるんで、のろい檐《ひさし》の点滴の音が、をちこちで鳴き出した梟《ふくろう》の声の鳴き尻を叩《たた》いてゐる。雨ではない。靄《もや》だ。それが戸の隙間《すきま》から見えぬやうに忍び込んで行燈《あんどん》の紙をしめらしてゐる。湯鑵の水はすつかりなくなつて、ついでに火鉢の火の気も淡くなつてゐる。
 秋成は、尽きぬ思ひ出にすつかり焦立《いらだ》たさせられ、納《おさま》りかねる気持に引かへ、夜半過ぎて長閑《のどか》な淀《よど》みさへ示して来たあたりの闇の静けさに、舌打ちした。==なにが、この俺がこどもに帰つた翁《おきな》か。求めるこころも愛憎も、人に負けまい、勝負のこころも、みんな生殺《なまごろ》しのままで残されてゐるではないか。身体が、周囲が、もう、それをさせなくなつてしまつたまでだ。もしそれをさせるなら俺は右の手にも左にもちび筆を引握つて、この物恋ふこころ、説き伏せ度《た》い願ひを
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