ですこし思案して『瑚※[#「王+連」、第3水準1−88−24]《これん》』とつけてやつた。どういふわけだと妻が訊《き》くから、これこれと呼ぶのに便利がいいからだと冗談半分に教へてやると、あんまり手軽すぎると不満さうだつたが、強《し》ひてことわりもせず、やがてその名のつもりになつてゐた。
 尼の形になつてからのお玉が驚かれたのは、まるで気性の変つて仕舞《しま》つたことであつた。ぱつぱつと話はする。気の向くとき働くが、気の向かぬときはどこまでも不精《ぶしょう》をする。世間|態《てい》などちつとも構《かま》はなくなつて、つづれをぶら下げた着物でも平気で外へ出る。そしてむやみに笑ふやうになつた。多病でよく寝込むが、それを見舞ふとあはあは笑ふ。かうなつて来ると、却《かえっ》て自分には彼女にいつくしみが出て来るのだ。いんぎんにまめに自分の面倒を見た若いときの妻の親切といふものは、一つも心に留《とどま》つて居ないのに、綻《ほころ》びて仕舞つたやうになつた彼女が、ただわけもなくときどき自分の眼を見入るその眼を見ると、結婚して以来はじめて了解仕合つたといふ感じがするのであつた。しかも彼女は、一向もうそんなことをうれしいとも思はない無意識の状態で、自分を眺めるのだつた。
 最初から、すこし、いける口の彼女であつたが、それからは遠慮もなく、金があれば酒を飲み出し、京都へ移つてからは、画描きの月渓など男の酒飲み友達と組になり、豆腐ぐらゐの肴《さかな》でわびた酒盛をしじゆうやつた。
 この女も尼になつてから七年目、自分が六十六歳、彼女が五十八歳のとき死んだ。
 彼女に就いては死んだ後、まだ一つ意外な思ひをさせられた。
 彼女は自分の道楽を見習つて、すこしは歌めくもの、まれに短文などつづりもしたが、元来家事向きに出来て居る女の物真似、なに程の事ぞときめて、取り上げた事もなかつた。彼女も臆《おく》して自分には見せなかつた。ところが彼女が死に、彼女のすこしばかりの遺《のこ》しものの破れた被布《ひふ》、をさながたみの菊だたう[#「菊だたう」に傍点]など取片づけてゐるうちに、ふと、糸でからめた文反古《ふみほうご》の一束を見つけ出した。読んで見ると、自分の放埒《ほうらつ》時代にしじゆう留守をさせられた彼女の、若き妻としての外出中の夫に対する心遣ひを、こまごまと打開けたものや、子の無い自分が長柄川閑居時代に、ふと愛した近隣のこどもに死なれ愁歎《しゅうたん》の世にも憐《あわ》れなありさまを述べたものなどであつた。書きぶりも自分のによく似た上、運ぶこころも自分へ向けてゐるものばかりであつた。あの虫のやうな女に、こんな纏綿《てんめん》たる気持が蟠《わだかま》つてゐたのか。自分のやうな枯木ともなま木ともわけの判らぬ男性にやつぱり情を運ばうとしてゐたのか。さう思ふといぢらしくなつて、その文反古の上に、不覚の涙さへこぼした。しかし、再三読返してゐるうちに、自分に対して姉ぶつた物言ひや、自分を恨《うら》まず、なんでも世の中の無常にかこつけて悟りすまさうとする貞女振りや、賢女振りが、目について来て、やつぱり彼女も世間並の女であつたかと、興が醒《さ》めたとは云ひながら、その意味からいつて、また憐れさが増し、兎《と》も角《かく》も人が編んで呉《く》れた自分の文集『藤簍冊子《つづらぶみ》』の末に入れてやつた。
 秋成は、かういふ流浪《るろう》漂泊の生活の中に研鑽《けんさん》執筆してその著書は、等身の高さほどあるといはれてゐる。国文に関した研究もの、国史、支那稗史《しなはいし》から材料を採つた短篇小説、校釈、対論文、戯作、和歌、紀行文、随筆等、生涯の執筆は実に多岐《たき》に渉《わた》つてゐる。その著書は、煎茶道《せんちゃどう》の祖述、漢印の考証にまで及んでゐる。しかし、これ等《ら》の仕事は、気ままできれぎれで、物質生活を恵む筈《はず》なく、学才は人に脅威を与へ乍《なが》ら、生活はだんだん孤貧に陥つて行つた。
 養母と姑《しゅうとめ》が死んだ翌年の寛政五年、剃髪《ていはつ》した妻瑚※[#「王+連」、第3水準1−88−24]を携へて京都へ上つたときは、養母の残りものなど売り払つて、金百七両持つてゐたといふがそれもまたたく間に無くなり、それから書店の頼む僅《わず》かばかりの古書の抜釈《ばっしゃく》ものかなにかをして、十両十五両の礼を取つて暮してゐたが、ずつと晩年は数奇《すき》者が依頼する秋成自著の中でも有名な雨月などの謄写《とうしゃ》をしてその報酬で乏《とぼ》しく暮して居た。しかし、それも眼がだんだん悪くなつて出来なくなり、彼自身も『胆大小心録』で率直《そっちょく》に述べてゐる通り、「麦くたり、やき米の湯のんだりして、をかしからぬ命を生きる――」状態になつた。
 妻の瑚※[#「王+連」、第3水準
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