吐きに吐きつつ、しかも、未来|永劫《えいごう》癒《いや》されぬ人の姿のままで、生き延びるつもりだ。それを、さうはさせない身体よ、周囲よ、汝等《なんじら》はみな人殺しだぞ。人殺し! 人殺し!。と秋成は、自分の身体に向け、あたりに向け、低いけれども太くて強い調子の声を吐きかけた。そして、今更、自分の老《おい》を憎んだ。
 かうなつたら、やぶれ、かぶれ、生きられるだけ生きてやらう。身体が足の先きから死に、手の先きから死にして行かうとも、最後に残つた肋骨《ろっこつ》一本へでも、生きた気込みは残して見せようぞ――。考へがここまで来ると彼は不思議な落着きが出て来た。
 暁方《あけがた》近くらしいぬくい朝ぼらけを告ぐるやうな鶏《とり》の声が、距離不明の辺から聞えて来た。彼はこの混濁した朝、茶を呑《の》むことにとぼけたやうな興味を感じ出した。彼はまた湯鑵に新しく水を入れて来て火鉢の火を盛んにした。湯の沸く間に、彼は彼の唯一の愛玩《あいがん》品の南蛮《なんばん》製の茶瓶《ちゃびん》を膝《ひざ》に取上げて畸形《きけい》の両手で花にでも触れるやうに、そつと撫《な》でた。五官の老耄《ろうもう》した中で、感覚が一番確かだつた。
 南禅寺の本部で経行が始つた。その声を聞きながら、彼は死んだ人の名を頭の中で並べた。年代順に繰つて行つて五年前、享和元年に友だちの小沢蘆庵が七十九歳で死に、仕事|敵《がたき》の本居宣長が七十三で死んでゐるところまで来ると彼は微笑してつぶやいた――生気地《いくじ》なし奴等《めら》だ。
 十二歳年下で、六十歳の太田|南畝《なんぽ》がまだ矍鑠《かくしゃく》としてゐるのが気になつた。この男には、とても生き越せさうにも思へなかつた。世の中を狂歌にかくれて、自恣《じし》して居るこの悧恰《りこう》な幕府の小官吏は、秋成に対しては、真面目《まじめ》な思ひやり深い眼でときどき見た。それで彼も、生き負けるにしろさう口惜《くや》しい念は起さなかつた。
 茶瓶に湯が注がれて、名茶『一の森』の上※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《じょうろう》の媚《こ》びのやうな淡いいろ気のある香気が立ちのぼつた。彼は茶瓶をむづと掴《つか》んだ。茶瓶の口へ彼の尖《と》がつた内曲りの鼻を突込んだ。茶の産地の信楽《しがらき》の里の春のあけぼのの景色も彼の眼底に浮んだ。
 その翌、文化四年七
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