一つにさへ蜜の香が籠つてゐた。
芍薬の咲いてゐる所は小さい神祠の境内になつてゐた。庭は一面に荒れ寂れて垣なども型ばかり、地続きの田圃に働く田植の群も見渡せる。呟くやうな田植唄が聞えて来た。
君助はやつと気がついたやうに芍薬の花から眼を離し、空やあたりの景色を見廻した。彼の顔は、はじめて季節の好意を無条件で受け容れる寛ぎを示してゐた。
彼は妻に悩んだ男であつた。妻の方からいへば妻を悩ました夫で彼はあつたかも知れない。
多情多感で天才型のこの学者は魅惑を覚えるものを何でも溺愛する性質であつた。対象に向つて恋愛に近い気持ちで突き進むのであつた。
「魂を吸ひ取るやうな青白い肌色をなしてゐる」かういつて青磁の鉢に凝つたことがある。
「いのちが溶けて流れるやうな絵だ」かういつて浮世絵の蒐集にかかつたことがある。
時には古雛を買ひ集めてみたり、時には筆矢立を漁り歩いたり、奇抜だつたのは昔の千両箱の蒐集であつた。これはよく絵に描いてある見事なものとは反対に、実物は粗末でよごれ朽ちてゐた。
彼の凝り性は、彼の学問の助けにはなつたが経済上の浪費には違ひなかつた。相当に残つてゐた奈良の郷里の不動
前へ
次へ
全12ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング