か紫紅の焔のやうな花の群がりの向う側に一人の少女が立つて居た。
君助はあつと心に叫んで驚いた。それが幻ではあるまいかと疑つて、自分の眼を瞬いた。
少女はやゝ黄味がかつた銘仙の矢絣《やがすり》の着物を着てゐた。襟も袖口も帯も鴾色《ときいろ》をつけて、同じく鴾色の覗く八つ口へ白い両手を突込んで佇《た》つてゐた。憂ひが滴りさうなので蒼白い顔は却つてみづ/\しい。睫毛の長い煙つたやうな眼でじつと芍薬を見つめてゐた。
「お嬢さん! あなたはどちらのお子?」
君助は思はず訊いてしまつた。そして何といふ美しい娘だらうと険しくなる程無遠慮な眼ざしで瞠つた。
少女はまるで相手に関はぬ態度で、しかし、身体つきをちよつとかしげた顔に生れつき自然に持つ媚態とでもいつた和《なご》みを示し、ふくよかに答へた。
「あたくし、あすこのうちの者よ」
少女の指した神祠の茂みの蔭に、地方の豪家らしい邸宅の構へがほんの僅か覗いてゐた。
「おいくつ?」
「十六」
「名前は」
「釆女子《うねめこ》」
問答は必要なことを応答するやうな緊密さで拍子よく運んだ。君助はこの幻のやうな美少女が現実の世界のものであることをやゝはつきり感じて来た。彼は渇いたものが癒されたときの深い満足の溜息を一つしてから
「学校へは行かないのですか」
「東京の学校へ行つてましたが、あんまり目立ち過ぎるつて、家へ帰されましたの。つまんないつてないの」
つまんないと云ふ少女の失望の表情が君助まで苦しめて、彼は怒を覚えて詰《なじ》るやうに訊いた。
「目立ち過ぎるつて、何が目立ち過ぎるんです?」
少女は、くつくと笑つた。
「いへないわ」
君助はもうこの時、直感するものがあつて言ひ放つた。
「あなたがあんまり美しいので、学校でいろ/\な問題が起つて困る。それで帰されたのでせう」
すると少女はもう悪びれずに答へた。
「をぢさま、よくご存じでいらつしやるわ」
陽は琥珀色に輝いて、微風の中にゆらぐ芍薬と少女は、閃めいて浮き上りさうになつた。少女はもう何事も諦め、気を更《か》へて、運命の浪の水沫を戯《もてあそ》ぶ無邪気な妖女神《ニンフ》のやうな顔つきになつてゐる。しなやかな指さきで芍薬の蕾の群れを分け、なかで咲き切つた花の茎を漁り、それを撮《つま》まうとしながら少女は言つた。
「をぢさま、この土地の伝説をご存じない?」
「知りません」
「この土地は小野の小町の出生地の由縁《いわれ》から、代々一人はきつと美しい女の子が生れるんですつて。けれどもその女の子は、小町の嫉みできつと夭死するんですつて」
「ほゝう!?」
少女は漸く、気に入つた開花を見付けて、ぢつと眺め入つてゐた。それから、また眼を上げて君助の顔を見た。下ぶくれの下半面についてゐる美事な唇に艶が増して来る。
「?」
「をぢさま、人間ていふものは、死ぬにしても何か一つなつかしいものをこの世に残して置き度《た》がるものね。けども、あたしにはそれがないのよ」
然《しか》し、さういひながらも少女は情熱に迫られたやうに、矢庭に顔を芍薬に埋めて摘んだ花に唇を合せた。紫に光る黒髪がぶる/\慄へてゐる。君助は、そつと片唾《かたず》をのんだ。
花から唇を離した少女の顔は青白く冴えてゐた。見るさへたゆげに肩を落し、後向くと夕風の吹く方向へ急に病気らしい咳をせき込みながら、白い踵をかへして消えるやうに神祠の森蔭へかくれて行つて仕舞つた。
失神したやうになつてゐた君助は、やがて気がつくと少女が口づけた芍薬の花を一輪折り取つた。彼は酔ひ疲れた人の縹渺たる足取りで駅へ引き返した。君助は東京へ帰つてから、かなり頭が悪くなつたといふ評判で、学界からも退き、しばらく下手な芍薬作りなどして遊んでゐるといふ噂だつたが、やがて行方不明になつた。
底本:「花の名随筆6 六月の花」作品社
1999(平成11)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第一巻」冬樹社
1974(昭和49)年9月第1刷発行
※混在する「良実」と「良真」は、ママとした。
入力:門田裕志
校正:林 幸雄
200年4月24日作成
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