の入つてゐる――」
「こんな虫喰ひ人形、どこがいゝんでせう」
君助はその度に夢の世界から現実の世界へ引戻される気がして、功利一方の妻の醜くさを感ずると共に、酔ふものを奪はれたあとの世の中の落寞に白け切つた。
彼はだん/\精神のまはりに灰色の殻を厚めて行つた。彼の情熱は書籍上の研究に集中された。いつとなく夫と妻とは闘ひ疲れて、無為を望む消極的の平和が家庭に幕を降したのである。
その時妻は死んでしまつた。病身の一人息子も死んでしまつた。彼だけが在野の国史国文に関する権威者の一人となつて残つた。
孤独の身となつて見ると彼には何事も判るやうな気がした。うるさいと思つた妻も、やはり弱い一箇の女であつたのだ。家のため、子のため老いのために、これはどうしても闘つたのが当然であると思はれて来た。妻が平凡な女だつただけに彼には却つて憐れみが残つた。
彼はまだ壮年だつたが、再婚する気は全然無かつた。何といつても妻といふものには懲りた上、精神のまはりに附いてゐる厚い殻はさういふ現実上の繋縛に再び牽かれることをすつかりおつくうがつてゐた。
しかしながら彼のやうな性質の人間が全く枯淡な冷灰の生活に諦め切つて生きて行けるものではなかつた。寂しさを増したため却つて埋み火のやうに心の奥へ封じ込められてゐた情感がうづいて、何等かのあたたかみを求めるのであつた。彼は始めて女性の魅力といふものに真から恋ひ出した。死んだ妻とは単なる媒妁結婚だつた。
生きた女もなま/\しく嫌だ。さればとて歴史上の女に慰められるにはまた史実に固定され過ぎて彼女等は干からびてゐる。縹渺《ひようびよう》とした伝説の女こそ、今の彼の心を慰める唯一の資格者だ。しかも彼女が飽くまで美しく、魅惑を持つ性格として夢みられ、彼に臨んで来なければ、彼のやうな灰人を動すには足りなかつた。彼は小野小町を考へ当てた。初恋の女のやうに夢中になつて弘仁朝の美女の研究に取付いた。
頃は明治二十八九年日清の戦役が終つた頃である。戦役中に起つた古典復活の勢はなほしばらく彼の調査に便宜を与へた。珍らしい史料や典拠も手に入つた。
彼の初めの目的は伝説から来る超現実の美女の俤《おもかげ》を心に夢み味ひしめることに在つたが、ある程度までの史実的存在の基礎は掴みたかつた。
彼は先づ小野家の系図から調べにかかつた。あの有名な遣唐使|篁《たかむら》朝臣《あそん》の子の良真《よしざね》の女として小町が記入されてゐるのもあり、無いのもある。
次に典拠になる考証を調べた。古来、名だたる学者が甲論乙駁して主張は数説に岐《わか》れてゐる。だが主流になる説は二説であつた。小町は近畿在住の小野家一族中に姫として出生し、直ちに宮中へ仕へたといふ説と、飽くまで伝説通り、良真が出羽守として赴任中妾腹に生れ、後京都に上つたといふ説とである。そして小町の古蹟と呼ばれてゐるものも近畿地方と出羽国との双方に多く割拠してゐる。
君助は強ひて真偽を定めなかつた。美人の素姓に於て、謎の深いことは魅惑の強いことにもなるからだ。
君助は楽しんで、伝説の小町の研究に入つて行つた。草紙洗小町、雨乞小町などといふいはゆる七小町の類から六歌仙の一人としての歌仙小町、それから人生の栄枯盛衰にかけてあはれ深く説きなした玉造小町、業平東下りの条の髑髏の小町などまで、およそ絶世の美女の上に空想される詩的構想を、あらゆる角度から伝説は充たしてゐる。そしてこれ等の空想の翼は、かなり小町の歌と世に通つてゐるものから飛翔してゐるのに気付いて、今度は彼女の歌の研究に入つて行つた。
小町集の全部はあてにならないにしても、これと古今、後撰などと照し合せて小町の歌らしいものを捕捉することが出来た。
ときには、男を揶揄するほどぴんとして気嵩なところがあり、ときには哀切胸も張り裂ける想ひが溢れ、それでゐて派手で濃密である。小町の美女としての人格がこれ等の歌の綜合感から出発してゐることを君助は初めて知つた。
研究の副産物として小町もときには恋愛し、ときには恋人に疎んぜられ恨みをのんだらしい形跡をも君助は見出した。従つて生涯無垢だといはれる巷間の噂話も、打消されるわけだが、なぜかこゝまで来ると彼の鋭い考察のメスはぴたりと止つた。そして頭を振つて言つた。
「小町は無垢の女だ。一生艶美な童女で暮した女だ」
友人はこれを聴いて、君助は孤独の寂しさから、少女|病《マニア》にかかつて、どの女も処女だと思ひ込むのだといつたが、君助はそれでもいゝ、結局男の望む理想の女はさうした女なのだと言ひ放つた。
書斎の研究はこの辺で一まづ打切つて、丁度季節も暖になつたので、君助は夢を事実に追ふやうな事蹟踏査に出たのであつた。
君助がゆつくり空やまはりの景色を見廻した眼を再び芍薬に戻すと、いつの間に
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