一つにさへ蜜の香が籠つてゐた。
 芍薬の咲いてゐる所は小さい神祠の境内になつてゐた。庭は一面に荒れ寂れて垣なども型ばかり、地続きの田圃に働く田植の群も見渡せる。呟くやうな田植唄が聞えて来た。
 君助はやつと気がついたやうに芍薬の花から眼を離し、空やあたりの景色を見廻した。彼の顔は、はじめて季節の好意を無条件で受け容れる寛ぎを示してゐた。
 彼は妻に悩んだ男であつた。妻の方からいへば妻を悩ました夫で彼はあつたかも知れない。
 多情多感で天才型のこの学者は魅惑を覚えるものを何でも溺愛する性質であつた。対象に向つて恋愛に近い気持ちで突き進むのであつた。
「魂を吸ひ取るやうな青白い肌色をなしてゐる」かういつて青磁の鉢に凝つたことがある。
「いのちが溶けて流れるやうな絵だ」かういつて浮世絵の蒐集にかかつたことがある。
 時には古雛を買ひ集めてみたり、時には筆矢立を漁り歩いたり、奇抜だつたのは昔の千両箱の蒐集であつた。これはよく絵に描いてある見事なものとは反対に、実物は粗末でよごれ朽ちてゐた。
 彼の凝り性は、彼の学問の助けにはなつたが経済上の浪費には違ひなかつた。相当に残つてゐた奈良の郷里の不動産はだん/\売り減らされ、妻のいはゆる所ふさげのがらくたものと形を替へた。
 妻はしきりに苦情をいつた。妻の心配には理由があつた。まだ幼ない発育不良の一人息子の教育資金も他に出どころはなし、自分たちの老後の生活費も気に懸つた。家門の体面といふ事もある。それやこれやで夫の郷里の資産は出来るだけ崩潰《ほうかい》を喰ひ止めて置き度《た》い。わがまゝな夫は、将来、どんなに窮しても学問を金に替へることなどしさうもない柄であつた。
 も一つ、妻の苦労の種は、夫の凝り性が、もし生ける女性にでも向けられるとなつたときの惧《おそ》れである。今こそ夫は物に溺れることを知つて、人に溺れることを知らないから無事なやうなものゝ、全然異性に対して免疫性の人間ではなささうだ。
 どつちからいつても早く夫の性分のマニアを癒して、家庭的の常識人になつて貰ふことは一家の浮沈にも係る大事であつた。
 夫と妻の闘争は根気よく続いた。夫が物事に偏愛執着の気振りを見せると妻は傍から引離した。夫が陶酔に入らうとすると妻は覚まして水をかけて
「何です、たかゞ土でひねつた陶《やき》ものぢやありませんか、おまけにひゞ[#「ひゞ」に傍点]
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