多くこの世の慈味を摂取して行こうとする政枝の生命の欲望のあがきであるのを思って、あわれなのであった。
華岡はやっと診察に取りかかった。そして診察を済ますと、そこにいる誰にとはなく、「もう少しでよくなるだろう」と告げながら、さっと立ち上ってしまった。そうだったのか――先刻からのこの医師の政枝に対するあしらいも矢張り死病の患者への気安めのあしらいだったのか。流石《さすが》患者のあしらいに馴れた医師の態度だと、多可子は華岡を見直した。
「先生、やっぱり直ぐ帰ってしまうのね。私が訊くことにお返事が出来ないからでしょう」
政枝は今度は今までとは違った意味で華岡医師に帰られるのを辛がった。彼女の病気に就いての詰問も日毎に執拗《しつこ》くなって来た。それは此頃政枝が死の恐怖に襲われるからである。一度死を図って死に損《ぞこな》った政枝は反動的に極度に死を怖れ、死から出来るだけ遠退きたいと心中もがき続けた。だが、死を思うまいとすれば却《かえ》って死の考えが泛《うか》び、夢にも度々《たびたび》死ぬ夢を見た。永久に脱出の叶わぬ、暗い、息もつけない洞窟の中に転落して行く――そういうような夢を度々見た。政枝が一方に係ってる華岡医師への乙女の嬌羞を突然脱ぎ捨てて、病気快方の福音を医師から聞き取ろうとするのも一つにこの死の恐怖をまぎらすためであった。それも同じ言葉の繰り返しだけでは不充分だった、彼女は華岡医師に色々な質問をして全《あら》ゆる方面から入り込もうとする死の予感を防ごうとした。そういう必死な心情が、漸く周りの空気を緊《ひ》き締めて行った。多可子は甘えたセンチメンタルと思った感情の底に、またこうした根もあることを知って、政枝を今更ながらいじらしく思った。政枝の眼は涙に満たされ、唇は震えて言葉がつげない様子だった。多可子は華岡に云った。
「先生、もう少しお話してやって下さい。段々よくなってますね」
「ええ、もう二三ヶ月じっとしておれば、起きられるようになりましょう」
政枝は眼をしばたたきながら、顫《ふる》え声で口を挟んだ。
「でもちっとも今だってこの間じゅうにくらべて快《よ》くならないじゃありませんか」
多可子は政枝のそういう言葉の底には、華岡医師から、「もうこの位快くなっている」と詳しく説明して呉れるのを期待する魂胆があるのを知っている。多可子はこの政枝の言葉の裏を華岡が了解して、成るべく沢山の気休めを云って呉れればよいと思った。だが華岡の口を切る前に傍にいた寛三が割り込んでしまった。
「政や、この先生はね、大学で新らしい学問をしていらっした方だからね。この先生に診《み》て貰っておれば、きっと治して下さるんだよ」
お座なりの見当違いの説明に、必死の望みを外された政枝は、見る見る顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に青筋を立てて父親を瞠んだ。娘がそんな気持ちでいるのも感じないで、この場の妙に白らけたのを取り做《な》すように、寛三は更に娘に向って云い聞かせるのであった。
「さあ、もう先生をお帰し申すのだよ。先生は他にまだ沢山苦しんでいるご病人をお持ちだからね」
「他の病人なんか華岡先生じゃなくて、他のお医者様を頼めばいいわ」
政枝はヒステリー女のように憎々しげな口調で云い放った。
「おばさん一緒に死んで呉れると云ったわね」
と夫のある自分をいくら少女でも十四にもなった政枝が思いやりもなく責めるのも、可愛相より時には怖しく聞く多可子は、その病的な利己心にそら怖ろしい気がするのであった。
華岡は当惑して暫らく傍観していたが、「明日来て、よく話すからね」と云い残して、素早く立ち上って階下に下りて行った。多可子はその後を追って玄関まで見送ると、華岡は振り返って、先程の寛三の言葉に対する弁明とも思われるようなことを云った。
「いろいろ薬も変えてみていますが、どうもよくならないのです。年が若いだけいけないですね」
政枝の手首の傷が殆ど癒着して、しかし胸の病の熱の方は、日増しに度を増して来た時分、戦争が始まった。日に二三度も号外がけたたましい鈴の音を表戸にうち当てて配達された。
その頃から不思議に政枝の気分は健康になり、時には明るい興奮さえ頬に登るようになった。
町の人は町角で――政枝は床に起き直って家の女手に向って頼みに来る千人針を二針三針縫った。
政枝はラジオ戦勝ニュースを聴くのを楽しみにした。
戦況はどんどん進んで行った。
夏から秋になった。
病少女はもはや瀕死《ひんし》の床に横わっていた。
「万歳! 万歳!」という勇ましい出征兵士を送る町の声々が病少女の凍って行く胸に響いた。すぐ近くのものと川向うらしいのと強弱のペーソスが混った。
政枝の薄板のようになった下腹に、ひとりでに少し力が入った。
政枝は自分でも知らずに「くすん」と微笑んだ。思いがけない表情に両親と姉の静子はこれを見て患者が最期に頭がどうかなるのだと思った。母親は慄えて念仏を唱えている。みな思わずにじり寄って政枝の顔を見詰めた。多可子は絶体絶命の気持ちで袖を掻き合わせ、眼を瞑《つむ》っていた。すぐ表通りをハッキリと、
「歓呼の声に送られて
今ぞ出《い》で立つ父母の国
勝たずば生きて還らじと」
若く太い合唱の声が空気を揺がせて過ぎる。その時政枝の暗く消え散る意識の中に一筋鋭く残った知覚が、こんなことを感じていた――みんな勇ましく行く、そしてそれは勝つためにだ。自分も――
刹那《せつな》だがもうその後は政枝の魂は生死を越えて冴えた明月の海に滑らかに乗っていた。
政枝の唇が青紫に色あせつつぴたぴた唾《つば》の玉を挟んで開け閉している。微《かす》かに声を出しているようだ。だが、それは多可子がひそかに怖れていた「おばさん一緒に死んで」という政枝の言葉ではなかった。多可子はありたけの気力を集中して耳を近くへ寄せた。政枝の声は
「――――
今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば」――――微かに唄っているようだ……。
多可子の胸へ渾身《こんしん》の熱い血がこみ上げて来た。多可子は政枝の亡骸《なきがら》に取りすがって涙と共に叫んだ。
「政ちゃん、安心して行って下さい。――あたしあんたと二人分生きる苦るしみと戦い――戦い――戦い――」
あとは泣き声で言葉にまとまりがなかった。
底本:「岡本かの子全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年7月22日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1974(昭和49)年3月〜1978(昭和53)年3月
初出:「新女苑」
1937(昭和12)年12月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年3月2日作成
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