勝ずば
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)孵化《ふか》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
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 夜明けであった。隅田川以東に散在する材木堀の間に挟まれた小さな町々の家並みは、やがて孵化《ふか》する雛《ひな》を待つ牝鶏《ひんけい》のように一夜の憩いから目醒めようとする人々を抱いて、じっと静まり返っていた。だが、政枝の家だけは混雑していた。それも隣近所に気付かれないように息を殺しての騒ぎだった。政枝が左手首を剃刀《かみそり》で切って自殺を計ったという騒ぎである。
 姉の静子は医者を呼んだその足で隣町の若い叔母の多可子を呼びに廻った。かかりつけの医者が人力車に乗って駈けつけた。父親の寛三は血を吹く政枝の左手首を手拭いの上から握りしめていた。
「政枝、先生に手当をして貰《もら》え、な、判ったか」
 父親は涙にうるんだ両眼を娘のそむけた横顔に近づけながら、おろおろ声で頼むように言い続けた。だが政枝は寝床の上に坐ったまま、歯を喰いしばり、身をかがめ、頻《しき》りに父親の手を振り離そうと争っている。若い医師は政枝が必死になって手当を拒み続けるので困り果てて、車夫に看護婦をつれて来るよう言いつけた。
「まあ、政枝さん、どうしたというの。しっかりしなくちゃ駄目じゃないの」
 隣町の婚家先から駈けつけて来た多可子は二階に昇るなり政枝の右肩を掴《つか》み、優しくゆすって叱った。不断優しい多可子が突然の驚きと、政枝を救いたい一心とで絞り出した癇高な鋭い声が、逆上した政枝の耳にも強く響いた。政枝は自分で自由にならないほど硬直した頸をやっと捻《ね》じ向けて、叔母の顔を恨めしそうに見上げた。それを見ると多可子は更に勢づいて、
「さあ、早く先生のお手当を受けるんです」
 とせき立てた。
 政枝の舌はもつれて硬ばっていた。
「どうせ癒《なお》らない病気――死なせて――邪魔しないで……」
 政枝はやっとこれだけ云うとまたしても父親の手から自分の左手首を引き離そうともがき始めた。多可子は政枝が自分の病気を死病だと思い決めている以上、それに逆らって説き伏せることは無理だと覚った。そして別な言葉でするどく叱った。
「たとえ癒らない病気に罹《かか》っても、生きられる限りは生きなければならないのですよ」
 不断、無口でおとなしかった政枝は却《かえ》ってこの叱咤《しった》に対して別人のように反撥した。
「何故、生きなければならないの。そのわけ[#「わけ」に傍点]を云って――。それが判るまで手当受けません」
 多可子はぐっと言葉に詰まった。でも、ぐずぐずしているうちに政枝の手首から多量の血が流れ出て仕舞《しま》う。多可子は焦《あせ》った。
「ええ、理由がありますとも。でも、今はあんたが亢奮し過ぎてるから、あとで落ち着いたとき、ゆっくり話す、ね。だから手当だけを受けなさい」
 政枝はまだ不承知らしい顔をしていたが、「きっとですか」と多可子を瞠《にら》んで念を押した。そして間もなくぐったりして父親や医師のするままになり、やがて素直に体を横にされた。
 看護婦がゴム管で政枝の腕を緊《し》めて血止めをすると、医師は急いで傷口の縫い合せにとりかかった。流石《さすが》に痛いとみえて政枝は一針毎に体をびくっ[#「びくっ」に傍点]と痙攣《けいれん》させたが、みんなの手前、意地を張ってか声一つ出さなかった。多可子は声も立てないで痙攣する政枝の悲惨な姿を見ていられなかった。少し離れた畳の上にうずくまると、隣町から駈け続けて来た自分の息切れを、やっとこの時急に感じ出して喘《あえ》いだ。
 喘ぎながら多可子は、僅《わず》か十四の政枝が思いつめた死の決意を考えてみ、それを飜《ひるが》えさせるだけの立派な理由を見出そうと努めた。しかし、病が癒らないものだという仮定の下に於ては却々《なかなか》簡単に少女を納得させる「人間がどうしても生きなければならぬ」理由なぞ、考え出せなかった。そうなると多可子は咄嗟《とっさ》の場合だから仕方がなかったとは云え、さっき政枝に云った余りにも自信ありげな自分の極言を顧みて途方にくれてしまった。
 医師の手当は進んで行った。朝はいつの間にか明け切って白銀色の光が家並みを一時に浮き出させると、人々は周章《あわ》てて家々の戸を開け展《ひろ》げた。材木堀を満たした朝の潮の香いが家々の中に滲み込んで来る。だが政枝の家ではまだ雨戸を締めている。医師は人力車に乗って帰って行った。看護婦もその後からついて行った。
 父の寛三は医師を送ってから急いで台所へ行って手や着物の汚れを洗い、洗面器を持って二階へ
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