、成るべく沢山の気休めを云って呉れればよいと思った。だが華岡の口を切る前に傍にいた寛三が割り込んでしまった。
「政や、この先生はね、大学で新らしい学問をしていらっした方だからね。この先生に診《み》て貰っておれば、きっと治して下さるんだよ」
お座なりの見当違いの説明に、必死の望みを外された政枝は、見る見る顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》に青筋を立てて父親を瞠んだ。娘がそんな気持ちでいるのも感じないで、この場の妙に白らけたのを取り做《な》すように、寛三は更に娘に向って云い聞かせるのであった。
「さあ、もう先生をお帰し申すのだよ。先生は他にまだ沢山苦しんでいるご病人をお持ちだからね」
「他の病人なんか華岡先生じゃなくて、他のお医者様を頼めばいいわ」
政枝はヒステリー女のように憎々しげな口調で云い放った。
「おばさん一緒に死んで呉れると云ったわね」
と夫のある自分をいくら少女でも十四にもなった政枝が思いやりもなく責めるのも、可愛相より時には怖しく聞く多可子は、その病的な利己心にそら怖ろしい気がするのであった。
華岡は当惑して暫らく傍観していたが、「明日来て、よく話すからね」と云い残して、素早く立ち上って階下に下りて行った。多可子はその後を追って玄関まで見送ると、華岡は振り返って、先程の寛三の言葉に対する弁明とも思われるようなことを云った。
「いろいろ薬も変えてみていますが、どうもよくならないのです。年が若いだけいけないですね」
政枝の手首の傷が殆ど癒着して、しかし胸の病の熱の方は、日増しに度を増して来た時分、戦争が始まった。日に二三度も号外がけたたましい鈴の音を表戸にうち当てて配達された。
その頃から不思議に政枝の気分は健康になり、時には明るい興奮さえ頬に登るようになった。
町の人は町角で――政枝は床に起き直って家の女手に向って頼みに来る千人針を二針三針縫った。
政枝はラジオ戦勝ニュースを聴くのを楽しみにした。
戦況はどんどん進んで行った。
夏から秋になった。
病少女はもはや瀕死《ひんし》の床に横わっていた。
「万歳! 万歳!」という勇ましい出征兵士を送る町の声々が病少女の凍って行く胸に響いた。すぐ近くのものと川向うらしいのと強弱のペーソスが混った。
政枝の薄板のようになった下腹に、ひとりでに少し力が入った。
政枝は自分でも知らずに「くすん」と微笑んだ。思いがけない表情に両親と姉の静子はこれを見て患者が最期に頭がどうかなるのだと思った。母親は慄えて念仏を唱えている。みな思わずにじり寄って政枝の顔を見詰めた。多可子は絶体絶命の気持ちで袖を掻き合わせ、眼を瞑《つむ》っていた。すぐ表通りをハッキリと、
「歓呼の声に送られて
今ぞ出《い》で立つ父母の国
勝たずば生きて還らじと」
若く太い合唱の声が空気を揺がせて過ぎる。その時政枝の暗く消え散る意識の中に一筋鋭く残った知覚が、こんなことを感じていた――みんな勇ましく行く、そしてそれは勝つためにだ。自分も――
刹那《せつな》だがもうその後は政枝の魂は生死を越えて冴えた明月の海に滑らかに乗っていた。
政枝の唇が青紫に色あせつつぴたぴた唾《つば》の玉を挟んで開け閉している。微《かす》かに声を出しているようだ。だが、それは多可子がひそかに怖れていた「おばさん一緒に死んで」という政枝の言葉ではなかった。多可子はありたけの気力を集中して耳を近くへ寄せた。政枝の声は
「――――
今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば」――――微かに唄っているようだ……。
多可子の胸へ渾身《こんしん》の熱い血がこみ上げて来た。多可子は政枝の亡骸《なきがら》に取りすがって涙と共に叫んだ。
「政ちゃん、安心して行って下さい。――あたしあんたと二人分生きる苦るしみと戦い――戦い――戦い――」
あとは泣き声で言葉にまとまりがなかった。
底本:「岡本かの子全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年7月22日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1974(昭和49)年3月〜1978(昭和53)年3月
初出:「新女苑」
1937(昭和12)年12月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2010年3月2日作成
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