上って来た。そして雨戸を繰って風を入れながら畳の上の血を拭き始めた。不遇ななかから漸《ようや》く育ったわが子の血が結核などに汚されて、それがまたわが子の手に截《き》れたむごたらしい傷口から現在わが家の畳の上へこぼされたのが悲しくもいまいましい。この時妻のさい[#「さい」に傍点]が梯子《はしご》段の上り口でようやく安心した後の気の緩《ゆる》みで堪《こら》え性もなく泣き出したので、寛三はそれを叱って政枝の着換えと敷布を階下に取りにやった。
 着物を父親に着換えさせられてからも政枝は軽く眼を閉じて、いつまでも放心状態を続けた。その側に多可子は浴衣《ゆかた》の上に伊達巻《だてまき》をまいたばかりで隣町の自家へ朝飯前の夫を婆やにあずけて、周章てて駈けつけたままの姿で坐っていた。いつまでも政枝の側に坐っていると段々「生きなければならない理由」を政枝に云って聞かす約束が迫って来るようないらだたしい気がして居辛《いづら》かった。それに自分のはしたない[#「はしたない」に傍点]身なりが気になったので、寛三にそっと目まぜして帰って行こうとした。
 そのとき政枝は澄んで淋しげな眼を開いて、じっと多可子の顔を見た。
「出直して来るからね。じっとしていらっしゃい」
 多可子は一時逃れを云った。家へ帰って落ち着いた上、政枝のことや、彼女に対する自分の態度というようなことに就いて充分考えてみたかった。どうせ神経質で老成している政枝が自分にこの上追及して来ないとは思えなかった。
「おばさん生きなければならない理由を話して下さい」
 父親は呆れた顔で政枝の傍へ寄って来た。
「お前は死にはしないんだから。直《す》ぐ癒るよ」
 多可子も寛三の言葉について云った。
「本当よ。あんたのような若いひとが死ぬんなら、それより前に私なんかが死んでしまうわ」
 多可子は捨身の説明をした。
「そいじゃ、私が死ぬようなときは叔母さんも死ぬんですか」
「ええ、あんた死なせるもんですか。でもね、きっと癒りますから、安心して元気になりなさい」
 政枝は生きなくちゃならない理由といって別に深い理論を訊き出そうとするのではなかった。二度も続いて起った喀血で、死の恐怖に縮み上ってしまった政枝はどうせ死ぬことに決った自分なら、肺患者として長く病床に居て誰にも彼にも嫌われて惨めな最後に死んで行くよりいっそ今直ぐに自分から死のうと決心し
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