たとえ癒らない病気に罹《かか》っても、生きられる限りは生きなければならないのですよ」
 不断、無口でおとなしかった政枝は却《かえ》ってこの叱咤《しった》に対して別人のように反撥した。
「何故、生きなければならないの。そのわけ[#「わけ」に傍点]を云って――。それが判るまで手当受けません」
 多可子はぐっと言葉に詰まった。でも、ぐずぐずしているうちに政枝の手首から多量の血が流れ出て仕舞《しま》う。多可子は焦《あせ》った。
「ええ、理由がありますとも。でも、今はあんたが亢奮し過ぎてるから、あとで落ち着いたとき、ゆっくり話す、ね。だから手当だけを受けなさい」
 政枝はまだ不承知らしい顔をしていたが、「きっとですか」と多可子を瞠《にら》んで念を押した。そして間もなくぐったりして父親や医師のするままになり、やがて素直に体を横にされた。
 看護婦がゴム管で政枝の腕を緊《し》めて血止めをすると、医師は急いで傷口の縫い合せにとりかかった。流石《さすが》に痛いとみえて政枝は一針毎に体をびくっ[#「びくっ」に傍点]と痙攣《けいれん》させたが、みんなの手前、意地を張ってか声一つ出さなかった。多可子は声も立てないで痙攣する政枝の悲惨な姿を見ていられなかった。少し離れた畳の上にうずくまると、隣町から駈け続けて来た自分の息切れを、やっとこの時急に感じ出して喘《あえ》いだ。
 喘ぎながら多可子は、僅《わず》か十四の政枝が思いつめた死の決意を考えてみ、それを飜《ひるが》えさせるだけの立派な理由を見出そうと努めた。しかし、病が癒らないものだという仮定の下に於ては却々《なかなか》簡単に少女を納得させる「人間がどうしても生きなければならぬ」理由なぞ、考え出せなかった。そうなると多可子は咄嗟《とっさ》の場合だから仕方がなかったとは云え、さっき政枝に云った余りにも自信ありげな自分の極言を顧みて途方にくれてしまった。
 医師の手当は進んで行った。朝はいつの間にか明け切って白銀色の光が家並みを一時に浮き出させると、人々は周章《あわ》てて家々の戸を開け展《ひろ》げた。材木堀を満たした朝の潮の香いが家々の中に滲み込んで来る。だが政枝の家ではまだ雨戸を締めている。医師は人力車に乗って帰って行った。看護婦もその後からついて行った。
 父の寛三は医師を送ってから急いで台所へ行って手や着物の汚れを洗い、洗面器を持って二階へ
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