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おくみ『源兵衛さま』
源兵衛『おくみ』
おくみ『ほんにたまさか逢瀬《おうせ》の一夜。その上なにか胸騒ぎがしてすこしでも長くあなたに引添うて、離れとうもござりませぬ』
源兵衛『わしとても同じ想いだ。然しお上人さまがよう言わるる此の世のさまは、生者必滅、会者定離《えしゃじょうり》。たとえ表向き夫婦となって、共白髪まで添い遂げようとしても、無常の風に誘わるれば、たちまちあの世と此の世の距て。訣れとなるのは遅い早いの違いだけだ。そこをよう聴き分けて御念仏一筋を便りにおとなしく御主家へ帰って呉れ。今分れても首尾さえつけば、直ぐこちらから迎えに行く。若しまた拙い首尾になり果てようと、落ち付く先は極楽浄土。一つうてなで花嫁花婿』(涙にむせぶ)
おくみ(いそがしく手探りで源兵衛の頬を探り)『や、や、源兵衛さん、こなた泣いていやしゃんすな。先程呉れたお珠数《じゅず》と言い、わたしのこの胸騒ぎ、またいまのお言葉。こりゃ迂濶《うかつ》にお傍は離れられぬ。こなた何か、わたしに隠し立てをしていなさるな』(珠数を取出す)
源兵衛(おくみの手を払い涙を拭いて)『は、は、は、は、何の隠し立てをしてよいものか。世の譬《たと》えにも何ぞといえば夫婦は二世と言うではないか。離れぬ、往なぬとあまりそなたが云い張るゆえ今別れても末は一つの極楽浄土とわしが言ったは、ありゃほんの口のはずみじゃ』
おくみ『いえいえ弾みではございません。それに先程から折々何ぞ思い詰めて居るらしいこなたのかくし溜息。さあ、言って下され。心が急《せ》く。それともこなたが言えずば、いっそのこと、こなたの家へ馳せて行き、ととさん、かかさんに理由《わけ》を話し、のっぴきさせず押しかけ女房。瞬きする間もおまえのお傍は離れません。もともと二人は許嫁《いいなずけ》、誰に遠慮も要らぬ。わたしゃもう、御主家へは帰りますまい』
源兵衛『こりゃまた乱暴な。時節が来ぬのに押しかけ女房とは――。わしに言い損じもあらばあやまりもしよう。頼む。御主家へ戻って呉れ』
おくみ『わたしゃ、どうあっても嫌じゃわいなあ』
源兵衛『すりゃこれほどに頼んでも』
おくみ『死んでもお傍を離れませぬ』
源兵衛『帰れ』
おくみ『いやじゃ、いやじゃ』
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(二人、また揉み合うところに、源右衛門の家の垣の中に
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