現すのみか、本願を悦《よろこ》ぶ貌もあり、ずんと当流|易行《いぎょう》の道に適《かな》うことである。迚《とて》ものことにそう唱えしゃっしゃれ』
おくみ『「忘れられぬぞあのことを」でござりまするか。「忘れられぬぞあのことを」でござりまするか。なんじゃ知らぬけれど、わたくしどもには一そ尊いように感じられます。お上人さまの御証明を得たからには、もう安心いたしました。では、これを土産《みやげ》に勇んで御主家へ戻ります。では御機嫌よう。お上人さま』
蓮如『まあ待ちやれ、おくみ、そなた何ぞ、も一つ忘れたものはありはせんかの』
おくみ『はて、忘れたものとは』
蓮如『さあ忘れたものとは』
おくみ『何のことでございます』
蓮如『そなたに取ってあの世の往生は定まった。然し此の世でいっち慕わしいお人に逢わんで往んでも大事ないか』
おくみ『あれ、御慈悲の有難さに源兵衛さんのことは、いつの間にやら忘れていた。だが思い出してみると、こりゃどうしても源兵衛さんに逢わなくては……お上人さまも罪なお方でいらせられます』(再び恥かし気な様子)
蓮如『源兵衛はやがて御堂へ来る手筈《てはず》で、此の道を来ることになっている。わしは僧侶のことじゃ。恋の手引きは出来ぬ。しかし、ひとり手に此処へ通って来るものを強《し》いて知らさずに置く必要もあるまい。やがて来るわ。まあ、よいようにしなされ。わしはこれで訣《わか》れるとしよう』
おくみ『何から何まで御心くばり、有難うて涙がこぼれます』
蓮如『では、まめに暮しなさい』
[#ここから2字下げ]
(蓮如行きかける。供の竹原の幸子坊後より続く。蓮如、幸子坊の持った松明《あかり》に目をつけ)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
蓮如『これこれ幸子坊』
幸子坊『はい』
蓮如『今夜は月明り、松明は要るまい。その辺に捨てなさい。序に火打袋も』
幸子坊円『滅相《めっそう》な。空も大分曇って参りました。闇に松明は離せませぬ』
蓮如『いや、月明りじゃ。蟻《あり》の穴も数えられるばかりの月明りじゃ。松明は要らぬと申すに』
幸子坊『でも』
蓮如(おくみの方を目配せつつ)『幸子坊、師の命を背《そむ》かるるか。えい、松明は捨ていと申すに』
幸子坊(漸く意味がのみ込めて)『は、は、は、成程《なるほど》月明りでござった。これは飛んだ失礼、では捨てまするでござり
前へ 次へ
全18ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング