嬢さまご退屈ですか、おやおや。じゃ一つ重光さんに唄でもうたって聴かして頂きましょう」
「いやな婆や」
かの女は口でこう云って制したけれども、こういう青年がどんな唄をうたうかそれも聴いて見たかった。
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青年の唄っている唄は花柳界の唄にしても、唄っている心緒は真面目な嘆きである。声もよくなく、その上節廻しに音痴のところがある。それを自分で充分承知していながら、自分に対する一種の嘲笑いを示すかのような押した調子の底に、医《い》やすべからざる深い寂寞が潜むではないか。かの女の一般の若い生命を愛しむ母性が、この青年に向ってむくむくと頭を擡《もた》げる、この青年はどうかしてやらなければいけない。だがそう思う途端に、忽《たちま》ちかの女は自分を顧みる。危い性分である。人一倍情熱を籠めて生れさせられた癖に、家柄の躾《しつ》けや病身のために圧搾に圧搾を加えられている。それが自分の内気というものなのだ。もし、義侠のつもりで働きかけるにも、恋とか愛とかに陥《おちい》ってしまわぬだろうか。もしそういう道を踏めば、内気なだけに一途な性分でどこまで行くか知れない自分ではないか。日頃同じ性質の兄と共に警《いまし》め合っているのはこれではないか。これはまるで薪《たきぎ》を抱く人間が火事を救いに行くようなものであると、かの女は思った。兄は何故に自分にこんな青年を紹介したのか。自分は兄か何者かに試されているのではなかろうか。
「ばあや、もう眼の罨法《あんぽう》をする時間じゃなくって」
「そうでございましたね。じゃ重光さん今晩はもう失礼ですが」
青年はたいがい夜になってかの女を訪れて来た。
ばあやは
「重光さん、昼間はご勉強ですか」と訊いた。
すると青年は、ばあやより寧《むし》ろかの女に向うようにいった。
「昼間は何の感興もなく寝ていますよ。まあ死んでるようですね」
かの女は陽のある昼は全くの無に帰し、夕方より蘇る青年を、物語の中の不思議な魂魄のように想われ、美しくあやしく眺めた。
かの女の眼病は遅々として癒えながら、桜が咲いて散って行っても、まだ癒えなかった。青年は殆ど連夜かの女を訪れた。かの女の残り物で酒を
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