気がしてならなかった。憤りと呪いと不安とでジョーンは痩せて熱かった。
 ジョーンに引越されてしまったワルトンは友達を一人失った。彼にとってジョーンは碇《いかり》であった。時には厄介千万であったが、又時には落付かせて呉れる錘《おもり》であった。嫌に取り済《すま》したのが生意気に見えて癪《しゃく》に触ったが、懐《なつ》かしくも思った。嘗てアイリスの家の近くに居たジョーンは、彼女を連れてよくワルトンの家へ誘いに来たものだった、今ではアイリスが独りで居た。独りのアイリスは急に大人になったように見えた。奇妙に見えた。そのままにさせて置けない気がした。どうにかしてやらなければどんなになるか解らないように危なげに見えた。ワルトンにはアイリスの近頃の生活が急に淋しそうに見えて可憐《いじ》らしかった。彼の父の家である雑貨店の店先きで彼女によく逢った。銀行の会計事務を済ますと几帳面《きちょうめん》に真直ぐに帰宅する彼女をワルトンは大抵午後四時半に待って居た。アイリスの眼差しの中に、彼は質間と哀願と慈愛を見るようになった。二人は挨拶を交わした。一寸した立話をした。それはジョーンが引越して暫くしてからの事であった。それから二人は時々ジョーンの事を話したり訊いたりして其処等辺を散歩した。近所の町を散歩した。ずっと遠くまで歩き廻った。いくら遠くまで散歩しても二人の話はお終《しま》いにならなかった。ジョーンの事を話題にするのは今では全く面白くなかった。もう話題にのぼらなかった。アイリスを喜ばせ笑わせ、生き生きと輝かせて、その生の燃焼の中にワルトンは自分自身を飛び廻らせたかった。自分自身を一緒にくっつけてしまいたかった。此頃からジョーンはアイリスを訪ねて逢えない日があった。
 ワルトンは過ぎ去った四月二十二日を忘れない。その日は銀行休日《バンクホリデー》であった。ロンドンの恋人達を夢中にさせる日であった。少々野卑ではあったが、耳を叩き破る程の騒音と強烈なウイスキーが市内に居残った人々を無暗《むやみ》と弾ませた。気違いじみさせて、終いにはどうなるか解らぬ程、疲らせた。約束したジョーンは、アイリスを誘いに来た。彼女はワルトンと一緒になって待って居た。三人はぎこちない気持で、町中や公園の喧騒の中を歩き廻った。が、晩になった、ジョーンは帰らねばならなかった。アイリスの町の近くで彼女とワルトンと二人切りにしてジョーンは離れて行かねばならなかった。彼は自分の心配を運命に任せて元気よさそうに帰って行った。ワルトンは本当に幸福であった。彼の思うようにアイリスは喜んで呉れた。彼より余計に彼女は彼を頼って呉れた。もう夜中に近づいて居た。おどけたりよろけたりした二人は一寸疲れを休めに町角の小公園の灌木の間に入って行った。接吻は優しく骨身に滲みたのであった。翌朝ワルトンは、今日からどんな喜びの緊張と心の自由があるだろうかと、胸をわくわくさせて跳ね起きたが、アイリスの出勤前を道に擁して逢った時、すっかりワルトンの期待は外ずれた。アイリスは昨夜の一時的亢奮の冒険を苦々《にがにが》しく思って居た。彼女の性に対する好奇心が、あんなにもたわいなくワルトンに乗ぜられた事が、じっとして居られない程口惜しかった。感情の反動でワルトンと彼女は殆んど口を利かなかった。彼女の内に籠っての無表情と無口はワルトンを狼狽《ろうばい》させ、殆んど彼女に腕力を加え度いほど憤らせた。でも、その後、彼女は気持よく晴れた空気の中で、すがすがしい緑樹の蔭で、時には打ち解けてワルトンを懐かしそうに見えた。夢遊病者のように幽幻に彼女が振舞うのにワルトンは暫らく見とれた。が、それ等の彼女の美点は、ワルトンに少しも関係の無い気がし出した。全く彼女の彼に対する反応はほんの僅かであった。ワルトンは寂しくて馬鹿らしくて仕様がないのであった。でも彼は楽天主義者であったから、期待は細々と持ち続けた。半月以上経って、アイリスが自分と同程度にジョーンを遇するのを知って、ワルトンは意気込んだ。彼は元気を出した。余計に自分を意識して、自分の力を信じた。彼女を自分の庇護《ひご》の下に連れて来ようと思い暮した。彼はジョーンに今直ぐにも鼻をあかしたかった。屹度《きっと》それが出来るとワルトンは信じて居た。ジョーンを物の数にもしなかった。
 それが、そのジョーンが、今こんな暴力でワルトンを撲《なぐ》った。気が遠くなる程叩き付けた。ワルトンは意外にジョーンを大敵だと知って怒張した。決死の闘争が二人を捕らえた。
 ジョーンとワルトン、今は何を置いても相手を一つでも余計に撲りたかった。突きたかった。彼等はだんだん闘争そのものになって行った。彼等の意識には今はアイリスも無かった。決闘場も無かった、晩春も、午後の陽射しも、何もかも無かった。唯々衝突が、岩に当る怒濤
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