とはおろそかには済まされぬことだ。復一のように厭人症《えんじんしょう》にかかっているものには、生むものが人間に遠ざかった生物であるほど緊密な衝動を受けるのであった。まして、危惧《きぐ》を懐《いだ》いていた異種の金魚と金魚が、復一のエゴイスチックの目的のために、協同して生を取り出してくれるということは、復一にはどんなに感謝しても足りない気がした。
 休養のために、雌魚と雄魚とを別々に離した。そして滋養《じよう》を与えるために白身の軽い肴《さかな》を煮《に》ていると、復一は男ながら母性の慈《いつく》しみに痩せた身体もいっぱいに膨《ふく》れる気がするのであった。
 しかし、その歳|孵化《ふか》した仔魚は、復一の望んでいたよりも、媚《こ》び過ぎてて下品なものであった。

 これを二年続けて失敗した復一は、全然出発点から計画を改めて建て直しにかかった。彼は骨組の親魚からして間違っていたことに気付いた。彼の望む美魚はどうしても童女型の稚純を胴にしてそれに絢爛やら媚色《びしょく》やらを加えねばならなかった。そして、これには原種の蘭鋳より仕立て上げる以外に、その感じの胴を持った金魚はない。復一のこころに、真佐子の子供のときの蘭鋳に似た稚純な姿が思い出された。とにもかくにも真佐子に影響されていることの多い自分に、彼は久し振りに口惜《くや》しさを繰り返した。その苦痛は今ではかえってなつかしかった。
 しかし、彼は弱る心を奮い立たせ、いったん真佐子の影響に降伏して蘭鋳の素朴《そぼく》に還《かえ》ろうとも、も一度彼女の現在同様の美感の程度にまで一匹の金魚を仕立て上げてしまえば、それを親魚にして、仔《こ》に仔を産ませ、それから先はたとえ遅々《ちち》たりとも一歩の美をわが金魚に進むれば、一歩のわれの勝利であり、その勝利の美魚を自分に隷属させることが出来ると、強いて闘志を燃し立てた。ここのところを考えて、しばらく、忍《しの》ぶべきであると復一は考えた。復一は美事な蘭鋳の親魚を関西から取り寄せて、来るべき交媒の春を待った。蘭鋳は胴は稚純で可愛らしかった。が顔はブルドッグのように獰猛《どうもう》で、美しい縹緻《ひょうち》の金魚を媒《か》けてまずその獰猛を取り除くことが肝腎《かんじん》だった。

 崖邸にもあまり近づかない復一は真佐子の夫にもめったに逢わなかったが真佐子の夫という男は、眼は神経質に切れ上り、鼻筋が通って、ちょっと頬骨が高く男性的の人体電気の鋭そうな、美青年の紳士《しんし》であった。ある日曜日の朝のうち真佐子と女の子を連れて、ロマネスクの茶亭へ来て、外字新聞を読んだりしていた。その時すぐ下の崖の中途の汚水の溜りから金魚の餌のあかこ[#「あかこ」に傍点]を採って降りようとした復一がふとそこを見上げたが、復一はそれなり知らぬ振りでさっさと崖を降りてしまった。それを見た真佐子はそこに夫と居ながら、二人一緒に居るのが何だかうしろめたかった。
「いいじゃないか。なぜさ」
 と夫は無雑作に云った。
「だって、ここで二人並んで居るのをどこからでも見えるでしょう」
 と真佐子は平らに押した。
「どうして君とおれと、ここに居るのが人に見えて悪いのかね」
 夫の言葉には多少嫌味が含んでいるようだ。
「何も悪いってことありませんけど、谷窪の家の人達から見えるでしょう。あの人まだ独身なんですもの」
「金魚の技師の復一君のことかね」
「そうです」
 すると夫はやや興奮して軽蔑的に
「君もその人と結婚したらよかったんだろう」
 すると真佐子は相手の的から外れて、例の漂渺とした顔になって云った。
「あたしは、とても、縹緻好みなんですわ。夫なんかには。そうでないと一緒《いっしょ》にご飯も喰べられないんです」
「敵わんね。君には」怒《おこ》ることも笑うことも出来なくなった夫は、「さあ、お湯にでも入ろうかね」と子供を抱いて中へ入って行った。
 そのあとのロマネスクの茶亭に腰掛けて真佐子は何を考えているか、常人にはほとんど見当のつかない眼差《まなざ》しを燻《くゆ》らして、寂しい冬の日の当る麻布の台をいつまでも眺めていた。

「鯉と鰻の養殖がうまく行かないので、鼎造、この頃四苦八苦らしいよ。養魚場が金を喰い出したら大きいからね」
 築けども築けども湧き水が垣《かき》の台を浮かした。県下の半鹹《はんかん》半淡《はんたん》の入江の洲岸に鼎造はうっかり場所を選定してしまったのであった。その上都会に近い静岡県下の養魚場が発達して、交通の便を利用して、鯉鰻《りまん》を供給するので、鼎造の商会は産魚の販売にも苦戦を免れなかった。しかし、痛手の急性の現われは何といっても、この春財界を襲った未曾有《みぞう》の金融《きんゆう》恐慌《きょうこう》で、花どきの終り頃からモラトリアムが施行《しこう》された。鼎造
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