梠縄《しゅろなわ》の繃帯《ほうたい》をした竹樋《たけどい》で池の水の遣り繰りをしてあった。
 帰宅と帰任とを兼ねたような挨拶《あいさつ》をしに、復一は崖を上って崖邸の家を訊ねた。
 鼎造は復一が関西からの金魚輸送の労を謝した後云った。
「実は、調子に乗って鯉《こい》と鰻《うなぎ》の養殖にも手を出しかけているんだが、人任せでうまく行かないんだ。同じ淡水産のものだからそう違うまい。君に一つその方の面倒を見て貰おうか。この方が成功すれば、金魚と違って食糧品《しょくりょうひん》だから販路はすばらしく大きいのだ」
 もちろん復一は言下に断った。
「だめですね。詩を作るものに田を作れというようなもんです。そればかりでなく、お願いしておきますが、僕には最高級の金魚を作る専門の方をやらせて下さい。これなら、命と取り換えっこのつもりでやりますから」
「僕は家内も要らなければ、子孫を遺す気もありません。素晴らしく豊麗な金魚の新種を創り出す――これが僕の終生の望みです。見込み違いのものに金をつぎ込んだと思われたら、非常にお気の毒ですが」
 復一の気勢を見て、動かすべからざることを悟《さと》った鼎造は、もう頭を次に働かせて、彼のこの執着をまた商売に利用する手段もないことはあるまいと思い返した。
「面白い。やりたまえ。君が満足するものが出来るまで、僕も、催促《さいそく》せずに待つことにしよう」
 鼎造自身も、自分の豪放《ごうほう》らしい言葉に、久し振りに英雄的な気分になれたらしく、上機嫌になって、晩めしを一しょに喰いたいけれども、外《はず》せぬ用事があるからと断って、真佐子と婿に代理をさせようと、女中に呼びにやらして、自分は出て行った。
 復一に、何となく息の詰まる数分があって、やがて、応接間のドアが半分開かれ、案外はにかんだ顔の真佐子が、斜に上半身を現した。
「しばらく」
 そして、容易には中に入って来なかった。復一は永い間|渇《かっ》していた好みのものは、見ただけで満足されるという康《やす》らいだ溜息《ためいき》がひとりでに吐かれるのを自分で感じ、無条件に笑顔を取り交わしたい、孤独の寂しさがつき上げて来たが、何ものかがそれをさせなかった。それをしたら、即座《そくざ》に彼女の魅力の膝下《しっか》に踏まえられて、せっかく、固持して来た覚悟を苦もなく渫《さら》って行かれそうな予感が彼を警戒さし
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