んきょう》があるのだった」と気がついた。そしてこの谷窪を占《し》める金魚屋の主人になるのを悦《よろこ》んだ。だが、それから六年後の今、この柔《やわら》かい景色《けしき》や水音を聞いても、彼《かれ》はかえって彼の頑《かたくな》になったこころを一層|枯燥《こそう》させる反対の働きを受けるようになった。彼は無表情の眼《め》を挙げて、崖の上を見た。
 芝生《しばふ》の端《はし》が垂《た》れ下《さが》っている崖の上の広壮な邸園《ていえん》の一端《いったん》にロマネスクの半円|祠堂《しどう》があって、一本一本の円柱は六月の陽《ひ》を受けて鮮《あざや》かに紫|薔薇色《ばらいろ》の陰《かげ》をくっきりつけ、その一本一本の間から高い蒼空《あおぞら》を透《す》かしていた。白雲が遥《はる》か下界のこの円柱を桁《けた》にして、ゆったり空を渡《わた》るのが見えた。
 今日も半円祠堂のまんなかの腰掛《こしかけ》には崖邸の夫人|真佐子《まさこ》が豊かな身体《からだ》つきを聳《そびや》かして、日光を胸で受止めていた。膝《ひざ》の上には遠目にも何か編みかけらしい糸の乱れが乗っていて、それへ斜《ななめ》にうっとりとした女の子が凭《もた》れかかっていた。それはおよそ復一の気持とは縁のない幸福そのものの図だった。真佐子はかなりの近視で、こちらの姿は眼に入らなかろうが、こちらからはあまりに毎日|見馴《みな》れて、復一にはことさら心を刺戟《しげき》される図でもなかったが、嫉妬《しっと》か羨望《せんぼう》か未練か、とにかくこの図に何かの感情を寄せて、こころを掻き《か》き立たさなければ、心が動きも止りもしないような男に復一はなっていた。
「ああ今日もまたあの図を見なくってはならないのか。自分とは全く無関係に生き誇《ほこ》って行く女。自分には運命的に思い切れない女――。」
 復一はむっくり起き上って、煙草《たばこ》に火をつけた。

 その頃、崖邸のお嬢《じょう》さんと呼ばれていた真佐子は、あまり目立たない少女だった。無口で俯向《うつむ》き勝《がち》で、癖《くせ》にはよく片唇《かたくちびる》を噛《か》んでいた。母親は早くからなくして父親育ての一人娘《ひとりむすめ》なので、はたがかえって淋《さび》しい娘に見るのかも知れない。当の真佐子は別にじくじく一つ事を考えているらしくもなくて、それでいて外界の刺戟に対して、極めて遅
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