ら下りて来て、珍らしく金魚池を見物していた小造りで痩《や》せた色の黒い真佐子の父の鼎造《ていぞう》はそう云った。渋《しぶ》い市楽《いちらく》の着物の着流しで袂に胃腸の持薬をしじゅう入れているといった五十男だった。真佐子の母親であった美しい恋妻《こいづま》を若い頃亡くしてから別にささやかな妾宅《しょうたく》を持つだけで、自宅には妻を持たなかった。何か操持をもつという気風を自らたのしむ性分もあった。
 復一の家の縁に、立てかけて乾《ほ》してある金魚|桶《おけ》と並《なら》んで腰をかけて鼎造は復一の育ての親の宗十郎と話を始めた。
 宗十郎の家業の金魚屋は古くからあるこの谷窪の旧家だった。鼎造の崖邸は真佐子の生れる前の年、崖の上の桐畑《きりばたけ》を均《なら》して建てたのだからやっと十五六年にしかならない。
 新住者だがこの界隈《かいわい》の事や金魚のことまで驚《おどろ》くほど鼎造はよく知っていた。鼎造の祖父に当る人がやはり東京の山の手の窪地に住み金魚をひどく嗜好《しこう》したので、鼎造の幼時の家の金魚飼育の記憶《きおく》が、この谷窪の金魚商の崖上に家を構えた因縁《いんねん》から自然とよみがえった。殊《こと》に美しい恋妻を亡くした後の鼎造には何か瓢々《ひょうひょう》とした気持ちが生れ、この生物にして無生物のような美しい生きもの金魚によけい興味を持ち出した。
「江戸《えど》時代には、金魚飼育というものは貧乏《びんぼう》旗本の体《てい》のいい副業だったんだな。山の手では、この麻布《あざぶ》の高台と赤坂高台の境にぽつりぽつりある窪地で、水の湧くようなところには大体飼っていたものです。お宅もその一つでしょう」
 あるとき鼎造にこういわれると、専門家の宗十郎の方が覚束《おぼつか》なく相槌《あいづち》を打ったのだった。
「多分、そうなのでしょう。何しろ三四代も続いているという家ですから」
 宗十郎が煤《すす》けた天井裏《てんじょううら》を見上げながら覚束ない挨拶《あいさつ》をするのに無理もないところもあった。復一の育ての親とはいいながら、宗十郎夫婦はこの家の夫婦養子で、乳呑児《ちのみご》のまま復一を生み遺《のこ》して病死した当家の両親に代って復一を育てながら家業を継《つ》ぐよう親類一同から指名された家来筋の若者男女だったのだから。宗十郎夫婦はその前は荻江節《おぎえぶし》の流行《はや》ら
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