さします。
 冬中はまだいいのです。伯林の市中で雪掻き人夫を使います。これは体さえ丈夫なものならどうにか割込めます。ですから私たちは朝、目を覚して窓硝子に粉雪の曇りが見えるとき寝床から飛上って『占めた!』と叫びます。雪掻き仕事は、その日勘定の仕事ですから恒久的財源にはなりませんが、然し、ちょいちょいあるので、姉か叔母さんに駄賃を貰うような気がして楽しみな仕事です。道路で働いていると両側の家の子供がまつわり付いて雪掻きを手伝って呉れます。これもこの仕事を好もしいものに思わして呉れる一つの情趣です。
 そんなわけで私たちに取って春が来るくらい気を滅入《めい》らせるものはありません。春になると空や大地は詩的にも経済的にも私たちには赤裸にされてしまって余韻のないものになってしまうのです。その春がもう来ます。やっと私はここのレストランに一ヶ月程の臨時雇いの仕事を見付けましたが、これももう一人の給仕人が病気で休んでるからで、病人が癒ればお払い箱です。
 なにしろ、私は疲れました。もう此の世に刺激もパッションも無いのです。少しぐらいそういうもののあるのは却って私に取っては苦痛です。全く無意識な世界、無意味な生涯、そういうものこそ却って望ましくなって来たのです。私たちが生の自覚を持ち、意識や、意味に振り廻されて疲労ばかり覚える一生というものは、人間に取ってあまりたいしたもの[#「たいしたもの」に傍点]ではありません。それよりも生の前、死の後の、あの混沌とした深い眠り、肉体も精神も完全に交渉を断ったあの深い眠り、この方がどのくらい価値があることかわかりません。第一、時間から言っても、片一方は五六十年の間ですし片一方は無限の間です。どっちが人間としても本当の生涯か考えさせられます。
 仏教で言うニルヴァーナというのはそういうことではないでしょうか。
 私は生きながら無刺激、無感覚の生活をしたいと、よりより探ってみました。そういうところは、もう、あまり世界に多くありません。印度人のやっている僧庵生活に就いて人から聴きました。膝を組んで全く死の状態になって暮しているそうです。私に取って此のくらい耳寄りな話はありません。それで其処へ行く支度にかかりました。
 ところが驚きました。私のような考えを持った同じ独逸人がまだ沢山在ると見え、その目的で独逸人が印度に入り込む者が段々多くなったそうです。それで近頃イギリスの官憲が斯《こ》ういう独逸人を間諜《かんちょう》じゃないのかと疑い出し、我が国の外務省も気兼ねをしながら、印度入りの旅券を下附してくれますが、イギリスの領事館で上陸許可の査証を仲々くれません。
 然し私は決心しているのです。裏の方から通って行っても屹度印度へ入るつもりです。そこで私の生涯を葬《ほうむ》ることに成功するつもりです」
 私はベックリン青年の語る言葉を聴くうちに、途中で二度も三度も「まあ、ちょっと、待って」と叫びかけた。青年が「仏教、仏教」と口で言い、心に思い込んで居る考えは、決して仏教ではなかった、否、却って教主釈尊より弾呵《だんか》を受ける資格のある空亡外道《くうぼうげどう》の思想であった。
 だが、私は、私に対して近頃珍らしい同信者と見て奔河の流れのように自己を語る青年の満足さを見ては、押しても彼の言葉を妨げることは出来なかった。彼の言葉のスピードに私の言葉は弾ね飛ばされもしたのだった。
 私は此の地へ来るまでに倫敦《ロンドン》の仏教協会員とか、その他の欧洲人で仏教に興味を持つという人々とかに出会い、如何に彼等が小乗趣味の嗜好者であり、滅多に大乗教理を受け付けそうもない素質的のものであるかを根本に感じ、今更ながら現実肯定の仏教が、その思想が高遠であるだけそれだけ西洋人の宗教概念とは相容れず、うっかりすれば単なる厭世教に取られそうな気配いさえ見ゆるのに危険を覚えて慎しみを持つようになって居た。西洋人に大乗教理を説くのは余程の基礎知識の準備を与えて、さてそれから後のことだと思ったのであった。
 もう一つは私は教役者ではない。私は仏教の鳥だ。うたうのだ。ただそれだけでいい。若《も》し万一、私の如き者が仏教を筋道立てて講ずるのを必要とする場合が来たら、私は先《ま》ずわが同胞に説こう。それが私に許されねばならぬ唯一の好みだ。それから先は兎にも角にもである。
 それや、これやがあるので私は、挟み込めない私の言葉をそのまま無駄にして、終いには寧《むし》ろ青年が快く話し得られるように仕向ける態度を取った。青年は心置きなく語ったようだ。停車場には伯林行きの汽車が着く頃になったと見え、ちらほら乗客の姿が入口に溜って見えた。青年は勘定書を持って来るとき急いで言った。
「ただ一つ伺い度いのは愛の問題です。疲れた者にも愛だけは断ち切れません。寧ろ精神肉体の中
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